2025年04月05日
2025年3月の記録
春は毎年、メンタルが不安定になる。中医学的にもそういうものらしい。
なにかと気力を消耗して、まとまった文章を読むことができない。
去年もそう言っていたのだったか、忘れてしまったけれど。
読めないこともまた、焦燥感に拍車をかける。
凄い本を2冊も読みおえた、その反動ということにしておこう。
<今月のデータ>
購入12冊、購入費用13,595円。
読了8冊。
積読本349冊(うちKindle本164冊)。

バリ山行の感想
バリな山歩きの話のみにあらず。道なき山を歩く行為と同じ重量感で外壁工事会社の日常が描かれ、親近感が増した。中小企業が生き残るために元請路線を選択することも、社内で自身の主義を曲げずにいようとすることも、どちらも不安定を是とするありようで、道なき山を歩く行為と相似している。近場の里山でわずかな踏み跡を追っては単独遭難しかける私は妻鹿さんレベルまではいかないが、わかる気はするのだ。彼のバリ山行は現実逃避だっただろうか。いや、そのほうが身体の底からただおもしろく、真の現実を感じられるからだったのではないのか。
読了日:03月29日 著者:松永K三蔵
万物の黎明 人類史を根本からくつがえす (翻訳)の感想
読み終えるのが惜しい、とは若干強がりだが、非常に興味深かった。私たちが知識と信じ込んでいる、私たちの遠い祖先や非欧米民族への先入観や偏見は、科学を名乗る故に根深く私たちの思考を縛る。日本人も埒外なのにもかかわらず、だ。著者らの饒舌は小気味よくそれらを喝破する。有史以前から人間は徒歩でも大陸の反対側の人々と交流し、他民族多文化のまま共存する成熟した社会構造を各地に築き、何世紀にもわたり知識を累積し利用した。その創造と破綻が人間の宿命なら、今の社会も一つの例でしかないのは福音では。魚一匹分の鱗が目から落ちた。
原題「The Dawn of Everything」。『本当に希望に満ちた本です……わたしたちはなにごとも変わらない。このままネオリベラリズム、国家資本主義が永遠につづくだけだ、という心理につい陥りがちです。でも、この本には「いや、わたしたちは変われる」という記述がたくさんある。人類は存在しはじめてからずっとそうしてきたのですから』。
自由について。『遠方の地で歓迎されることがわかっているうえで、みずからの共同体を放棄する自由、季節に応じて社会構造のあいだを往復する自由、報復をおそれず権威に服従しない自由。たとえ現在ではほとんど考えることもできないにしても、わたしたちの遠い祖先にとって、これらはすべて自明であったようだ。人間はその歴史を初源の無垢な状態ではじめたわけではないだろう。だが、歴史のはじまりから、なにをすべきか命令されることを嫌うという自己意識はそこにともなっていたようにみえる』。
革命であったように言われる農耕について。穀物や野菜の栽培、畜産も含め、それは一気に人間の生活に取り入れられたのではなかった。戯れのようになにか植えてみたり、小動物を保護してみたり、やめたりを繰り返す、それを意思を持ってやっていたという。そんな自由で気ままな祖先の様子を想像すると痛快だ。庭にいろんなものを植えてみたり、工夫してものをこしらえたり楽しんでいる現代の私たちに地続きだと気づくことができた。それは祖先と同じ”遊戯”で、それこそが人類の繁栄を生んだ名もなき知識の累積の原点なのだ。
読了日:03月28日 著者:デヴィッド・グレーバー,デヴィッド・ウェングロウ
パンとサーカス (講談社文庫 し 33-8)の感想
日本人は自国の革命を想像する義務がある、と思った。大災害でも感染症でも日本は変わらなかった。政治に関心を持って選挙に行く正しき行為の先にも日本の完全主権は無い。革命とはテロや暗殺そのものではあり得ない。どうすれば変わる。自由と平等は要求し、戦わなければ、永遠に手に入れられないもの。『死ぬ前にド派手なサーカス見せろ、思う存分、社会を引っ掻き回せ』。テロの場面で鼓動が早まった。加害への恐怖半分、変革への期待半分。著者は憤りを金言と風刺と皮肉に込め、畳みかける。これは、読者へのアジテーションだ。胸が騒いだ。
読了日:03月20日 著者:島田 雅彦
レールの向こう (集英社文庫)の感想
沖縄に生まれ、沖縄の小説を書いてきた作家の短編集。外から故郷を想う沖縄人、ハワイ移民と家族、ユタを妄信する女やユタ本人などの、内心を周囲の目ではかるように描いたものが多い。沖縄の常識は想像を超える。沖縄で会った人が「友達に電話すればユタの電話番号を教えてもらえる」と言うのに驚いたが、ここでは「ユタを買う」という言い回しが使われる。ユタは自らの霊感を信じて祈祷したり、"真実"を宣する。すると複数のユタが宣する"真実"が矛盾し、ユタとユタが威信をかけて争うようなこともあるとは、今も昔も変わらない光景だろうか。
読了日:03月14日 著者:大城 立裕
海南小記 (角川ソフィア文庫)の感想
大正9年から東京朝日新聞記者として、九州、奄美、沖縄、八重山と訪れた連載記事を元にした紀行記。沖縄を移動しながら読むとシンクロが起きることもあって面白かった。島に人口が増え、生活が逼迫するごと、人は新しい島へと北上した。それが日本の起源と柳田翁は推論した。植物の繁茂するエネルギーは凄まじいが、人間の食をまかなうには限度があると肌で感じた。内地で蒲葵と呼ぶ木は島ではクバ、古名はアヂマサ。白く晒して団扇や笠などに編んで上納したという。島では御嶽で大切にされる、信仰と切り離せない植物。低いヤシの木みたいだった。
豆腐はどこの家でもつくっていたとある。沖縄で豆腐と言えばジーマミー豆腐、落花生からつくる。ジーマミーは「地豆」だがこれは地元で採れる豆ではなく地面の中にできる豆である由。いわゆる豆腐は大豆からつくる。いずれも過去には大々的に栽培されて、在来種もあったものが、外国産に押されて衰退した流れは内地と同じ。ほとんど栽培されていなかったが、近ごろ復活の取組みが盛んとのこと。パイナップル農家の女性と話した。栽培は出荷までに3年ないし2年かかる。決して加工にまわせるほどの収量はなく、台風のリスクは計り知れないとのこと。
読了日:03月12日 著者:柳田 国男
私はフーイー 沖縄怪談短篇集 (幽BOOKS)の感想
恒川さんが沖縄に移住して10年経った頃の短編集。沖縄の自然に感じる、ある意味得体の知れない感覚と、恒川さんの描く異界性は親和性がある。一方、現代における犯罪という。現代のモラルに基づいた善悪との組み合わせが、なんとなく居心地が悪かった。琉球王国、戦争、文化や風土の独自性を踏まえたうえで、独りたたずむ目の前の静かな闇は、少し種類が違う怖さのように思う。ただこれも沖縄で読むと違う感覚を覚えるのかもしれない。何度か出てきた阿檀の茂みが持つ密度と人を寄せつけない重量感は、実際に目にしてなるほどと納得できたのだ。
読了日:03月07日 著者:恒川光太郎
忘れられた日本―沖縄文化論 (1964年) (中央公論社)の感想
沖縄へ行く前に。昭和36年に訪れた沖縄を、占領と貧困の島と岡本太郎は表した。岡本太郎の放つエネルギーが激しくて、前回に同じく消耗する。日本人が沖縄人に沖縄人として生きることを許さなかったことに憤り、ゆえに言葉や文化が『民族の底の奥ふかいエネルギー』と感じさせる力を弱めていることを苦々しく思い、御嶽で清潔な感動に恍惚する。踏み石が埋め込まれ、茂った草に挟まれた小道の先にある御嶽。斎場御嶽はすっかり観光地化してしまったのだろうか。その清潔、その神聖を感じることはできるのだろうか。祈ることはできるのだろうか。
読了日:03月04日 著者:岡本太郎
日本問答 (岩波新書)の感想
難しい。しかし面白い。教養が足りないなりに考え考え生きてきて、どうにも解けない問題の根っこはここだと膝を打った。江戸の私塾は、伝えたい人のところに好奇心で聴きたい人が集まったという。ならばこのシリーズは私の私塾である。日本人のおおもと。明治以降捨ててきた思想は、見失ってもなお日本人の底に在る。日本人の性質は、常にひとつに絞らないことと見る。もともと多様で、デュアルで、そのままを受容して平気な民族。『柔軟かつ強靭な寛容』との表現が好い。国の外からではなく、日本の過去を潜らなければ私たちの正体は見えないのだ。
「一枝の桜」のように、掘れば掘るほどぐじゃぐじゃになってしまう日本人論は、なるべくしてそうなる。日本人だって同じで自分たちを一貫して説明できない。それを遡り学問化しようとしたのが国学だったという。明治以降わからなくなって、探る努力を放棄して今に至る。とすれば、やはり米欧の基準に引きずられ、経済面や武力面での他国との競争にばかり気を取られているうちにまた戦争に頭を突っ込んでいくのだろうと、想像に難くない。独自の思想や循環社会を持っていたことを思い出せれば、真に独立できるのだろうけれども。
田中『義務教育じゃないし、誰かに強制されるわけでもない。もともと学問を究めようとか、それで身を立てようといった向上心すらなかったかもしれません。競争という感覚がどうもなかったようです。学問をして上りつめようというような感じではない。だから好奇心としか言いようがないんです』。 松岡『なるほど。好みだ』。
読了日:03月01日 著者:田中 優子,松岡 正剛
注:
は電子書籍で読んだ本。
なにかと気力を消耗して、まとまった文章を読むことができない。
去年もそう言っていたのだったか、忘れてしまったけれど。
読めないこともまた、焦燥感に拍車をかける。
凄い本を2冊も読みおえた、その反動ということにしておこう。
<今月のデータ>
購入12冊、購入費用13,595円。
読了8冊。
積読本349冊(うちKindle本164冊)。


バリな山歩きの話のみにあらず。道なき山を歩く行為と同じ重量感で外壁工事会社の日常が描かれ、親近感が増した。中小企業が生き残るために元請路線を選択することも、社内で自身の主義を曲げずにいようとすることも、どちらも不安定を是とするありようで、道なき山を歩く行為と相似している。近場の里山でわずかな踏み跡を追っては単独遭難しかける私は妻鹿さんレベルまではいかないが、わかる気はするのだ。彼のバリ山行は現実逃避だっただろうか。いや、そのほうが身体の底からただおもしろく、真の現実を感じられるからだったのではないのか。
読了日:03月29日 著者:松永K三蔵


読み終えるのが惜しい、とは若干強がりだが、非常に興味深かった。私たちが知識と信じ込んでいる、私たちの遠い祖先や非欧米民族への先入観や偏見は、科学を名乗る故に根深く私たちの思考を縛る。日本人も埒外なのにもかかわらず、だ。著者らの饒舌は小気味よくそれらを喝破する。有史以前から人間は徒歩でも大陸の反対側の人々と交流し、他民族多文化のまま共存する成熟した社会構造を各地に築き、何世紀にもわたり知識を累積し利用した。その創造と破綻が人間の宿命なら、今の社会も一つの例でしかないのは福音では。魚一匹分の鱗が目から落ちた。
原題「The Dawn of Everything」。『本当に希望に満ちた本です……わたしたちはなにごとも変わらない。このままネオリベラリズム、国家資本主義が永遠につづくだけだ、という心理につい陥りがちです。でも、この本には「いや、わたしたちは変われる」という記述がたくさんある。人類は存在しはじめてからずっとそうしてきたのですから』。
自由について。『遠方の地で歓迎されることがわかっているうえで、みずからの共同体を放棄する自由、季節に応じて社会構造のあいだを往復する自由、報復をおそれず権威に服従しない自由。たとえ現在ではほとんど考えることもできないにしても、わたしたちの遠い祖先にとって、これらはすべて自明であったようだ。人間はその歴史を初源の無垢な状態ではじめたわけではないだろう。だが、歴史のはじまりから、なにをすべきか命令されることを嫌うという自己意識はそこにともなっていたようにみえる』。
革命であったように言われる農耕について。穀物や野菜の栽培、畜産も含め、それは一気に人間の生活に取り入れられたのではなかった。戯れのようになにか植えてみたり、小動物を保護してみたり、やめたりを繰り返す、それを意思を持ってやっていたという。そんな自由で気ままな祖先の様子を想像すると痛快だ。庭にいろんなものを植えてみたり、工夫してものをこしらえたり楽しんでいる現代の私たちに地続きだと気づくことができた。それは祖先と同じ”遊戯”で、それこそが人類の繁栄を生んだ名もなき知識の累積の原点なのだ。
読了日:03月28日 著者:デヴィッド・グレーバー,デヴィッド・ウェングロウ


日本人は自国の革命を想像する義務がある、と思った。大災害でも感染症でも日本は変わらなかった。政治に関心を持って選挙に行く正しき行為の先にも日本の完全主権は無い。革命とはテロや暗殺そのものではあり得ない。どうすれば変わる。自由と平等は要求し、戦わなければ、永遠に手に入れられないもの。『死ぬ前にド派手なサーカス見せろ、思う存分、社会を引っ掻き回せ』。テロの場面で鼓動が早まった。加害への恐怖半分、変革への期待半分。著者は憤りを金言と風刺と皮肉に込め、畳みかける。これは、読者へのアジテーションだ。胸が騒いだ。
読了日:03月20日 著者:島田 雅彦


沖縄に生まれ、沖縄の小説を書いてきた作家の短編集。外から故郷を想う沖縄人、ハワイ移民と家族、ユタを妄信する女やユタ本人などの、内心を周囲の目ではかるように描いたものが多い。沖縄の常識は想像を超える。沖縄で会った人が「友達に電話すればユタの電話番号を教えてもらえる」と言うのに驚いたが、ここでは「ユタを買う」という言い回しが使われる。ユタは自らの霊感を信じて祈祷したり、"真実"を宣する。すると複数のユタが宣する"真実"が矛盾し、ユタとユタが威信をかけて争うようなこともあるとは、今も昔も変わらない光景だろうか。
読了日:03月14日 著者:大城 立裕


大正9年から東京朝日新聞記者として、九州、奄美、沖縄、八重山と訪れた連載記事を元にした紀行記。沖縄を移動しながら読むとシンクロが起きることもあって面白かった。島に人口が増え、生活が逼迫するごと、人は新しい島へと北上した。それが日本の起源と柳田翁は推論した。植物の繁茂するエネルギーは凄まじいが、人間の食をまかなうには限度があると肌で感じた。内地で蒲葵と呼ぶ木は島ではクバ、古名はアヂマサ。白く晒して団扇や笠などに編んで上納したという。島では御嶽で大切にされる、信仰と切り離せない植物。低いヤシの木みたいだった。
豆腐はどこの家でもつくっていたとある。沖縄で豆腐と言えばジーマミー豆腐、落花生からつくる。ジーマミーは「地豆」だがこれは地元で採れる豆ではなく地面の中にできる豆である由。いわゆる豆腐は大豆からつくる。いずれも過去には大々的に栽培されて、在来種もあったものが、外国産に押されて衰退した流れは内地と同じ。ほとんど栽培されていなかったが、近ごろ復活の取組みが盛んとのこと。パイナップル農家の女性と話した。栽培は出荷までに3年ないし2年かかる。決して加工にまわせるほどの収量はなく、台風のリスクは計り知れないとのこと。
読了日:03月12日 著者:柳田 国男


恒川さんが沖縄に移住して10年経った頃の短編集。沖縄の自然に感じる、ある意味得体の知れない感覚と、恒川さんの描く異界性は親和性がある。一方、現代における犯罪という。現代のモラルに基づいた善悪との組み合わせが、なんとなく居心地が悪かった。琉球王国、戦争、文化や風土の独自性を踏まえたうえで、独りたたずむ目の前の静かな闇は、少し種類が違う怖さのように思う。ただこれも沖縄で読むと違う感覚を覚えるのかもしれない。何度か出てきた阿檀の茂みが持つ密度と人を寄せつけない重量感は、実際に目にしてなるほどと納得できたのだ。
読了日:03月07日 著者:恒川光太郎


沖縄へ行く前に。昭和36年に訪れた沖縄を、占領と貧困の島と岡本太郎は表した。岡本太郎の放つエネルギーが激しくて、前回に同じく消耗する。日本人が沖縄人に沖縄人として生きることを許さなかったことに憤り、ゆえに言葉や文化が『民族の底の奥ふかいエネルギー』と感じさせる力を弱めていることを苦々しく思い、御嶽で清潔な感動に恍惚する。踏み石が埋め込まれ、茂った草に挟まれた小道の先にある御嶽。斎場御嶽はすっかり観光地化してしまったのだろうか。その清潔、その神聖を感じることはできるのだろうか。祈ることはできるのだろうか。
読了日:03月04日 著者:岡本太郎

難しい。しかし面白い。教養が足りないなりに考え考え生きてきて、どうにも解けない問題の根っこはここだと膝を打った。江戸の私塾は、伝えたい人のところに好奇心で聴きたい人が集まったという。ならばこのシリーズは私の私塾である。日本人のおおもと。明治以降捨ててきた思想は、見失ってもなお日本人の底に在る。日本人の性質は、常にひとつに絞らないことと見る。もともと多様で、デュアルで、そのままを受容して平気な民族。『柔軟かつ強靭な寛容』との表現が好い。国の外からではなく、日本の過去を潜らなければ私たちの正体は見えないのだ。
「一枝の桜」のように、掘れば掘るほどぐじゃぐじゃになってしまう日本人論は、なるべくしてそうなる。日本人だって同じで自分たちを一貫して説明できない。それを遡り学問化しようとしたのが国学だったという。明治以降わからなくなって、探る努力を放棄して今に至る。とすれば、やはり米欧の基準に引きずられ、経済面や武力面での他国との競争にばかり気を取られているうちにまた戦争に頭を突っ込んでいくのだろうと、想像に難くない。独自の思想や循環社会を持っていたことを思い出せれば、真に独立できるのだろうけれども。
田中『義務教育じゃないし、誰かに強制されるわけでもない。もともと学問を究めようとか、それで身を立てようといった向上心すらなかったかもしれません。競争という感覚がどうもなかったようです。学問をして上りつめようというような感じではない。だから好奇心としか言いようがないんです』。 松岡『なるほど。好みだ』。
読了日:03月01日 著者:田中 優子,松岡 正剛

注:

Posted by nekoneko at 14:09│Comments(0)
│読書