2024年09月02日
2024年8月の記録
秋の夜長。なんて素敵な響き。
読書と酒と虫の音。
そんな近未来を想像してうっとりする。
<今月のデータ>
購入27冊、購入費用34,427円。
読了15冊。
積読本334冊(うちKindle本158冊)。
チョプラ警部の思いがけない相続 (ハーパーBOOKS)の感想
舞台はムンバイ。だからといって冒頭『退職することになっていたその日の朝、チョプラ警部は自分が象を一頭、相続したことを知った』に度肝を抜かれないわけではない。子象とはいえ象は象。さっきからこの文章の漢字変換もまともじゃない。象が出てこなければならない理由は、ない。著者はきっと、新興巨大ショッピングモールのエスカレーターに乗る子象とか、リビングで妻とドラマを観る子象、雨期の洪水により裏庭で溺れかける子象、ムンバイを疾走する子象などを描きたかったんじゃないか。なんで小象なのか。何か企みがあると信じて続きを待つ。
読了日:08月31日 著者:ヴァシーム カーン
捕食者なき世界 (文春文庫 S 12-1)の感想
人間は平地に降り立つや、脅威となる大型捕食動物の殲滅を開始した可能性がある。それはここ数百年に至っては明白で、オオカミもクマも大型ネコ科動物も、脅威の排除、あるいは娯楽や収入のため殺し続けている。結果、被捕食動物=中間捕食者が増え、多量に捕食したために生態系の均衡を欠き、壊滅に至る壮大なメルトダウンが既に観察されている。頂点捕食動物の復権を実行すれば、中間捕食者は健全な恐怖心を取り戻し、植生は復活し、生態は多様性を取り戻せる。しかし「健全な恐怖心」を失っているのは人間も同じだろう。望みは限りなく薄いかと。
例えば日本。オオカミ復活論はずいぶん前から提唱されているけれど、今、どれだけの日本人がその"脅威"を受け入れられるだろう。彼らと共生する能力、天然の危険を回避する術はずいぶん忘れ果てた。かといってオオカミの代わりにシカやイノシシを狩れるだけのハンター数を、既に維持できていない。代わりとなるべきイヌは繋がれている。恐怖心なき食害によって、山林の植生は貧しくなり、荒れ、崩れ、また植物も防衛能力を発動して変化してゆくと予測される。人間はひたすら排除と逃避を繰り返すのか。なんて殺伐として壊滅的な未来像だろう。
原題「Where the Wild Things Were」。『現時点でわかっていることから、生物多様性を維持する上で、頂点捕食者は重大でかけがえのない調整の役割を担っていると思われる。頂点捕食者がいなければ、急速かつ広範な絶滅が進み、生態系は単調なものになるだろう』。
読了日:08月29日 著者:ウィリアム ソウルゼンバーグ
水納島再訪の感想
『このまま行けば無人島になる』。水納島には130年の歴史がある。あるいは、130年しかない。島の歴史は沖縄を通じて日本の歴史と、島の人から聞く話は公の記録文書と繋がっている。戦後、増えた人口に対し、僻地から離島、果ては海外まで生きる場所を施策しなければならなかった日本は、今や急激な人口減少に直面し、水納島は先端を行っていると言える。誰も住まなくなれば、伝え繋ぐ痕跡は消えてしまう。人々が語る暮らしのたくましさ、豊かさを感じ取るとき、僻地を復興・振興するのは経済的に無駄とする思考の貧乏臭さを痛切に思う。
読了日:08月27日 著者:橋本 倫史
WILDERNESS AND RISK 荒ぶる自然と人間をめぐる10のエピソードの感想
あちこちの媒体に書いた初期のノンフィクション記事集。調査を基に書かれたクラカワーのノンフィクションが面白いのは「荒野へ」で承知済みだ。事実をスマートに記述するだけではなく、クラカワー自身の実体験が裏打ちし、取材対象に重ね合わせてみせることで、よりリアルに想像させる。苦難があるからこそ魅力的で甘美な体感が得られる活動は、人口が増えればそのぶん自然破壊や危険を増すものでもある。この本に採録された文章には、責任のなすりつけ訴訟や詐欺めいた荒野療法など、アメリカ特有の諸問題も取り上げられていて興味深かった。
読了日:08月24日 著者:ジョン・クラカワー
飛躍するインド映画の世界の感想
祭りだ! 観た/観てないに拘わらず嬉々として読む。北インドのヒンディー語圏映画と南インドのドラヴィタ語圏映画の対比は、どちらが優れている如何ではないながら、私にはやはり南インド映画が魅力的だ。ざっくり南インドのほうが教育水準が高く、温暖で食べものが豊富な土地柄であること、また辺境でありながら交易の拠点でもあった歴史が、文化的な豊かさ、感情表現の豊かさにつながっていると感じる。映画音楽の旋律と韻律の魅力といったら。A.R.ラフマーンの、南インド映画のほうが作曲をやりやすく冒険もできるとのコメントも納得。
映画カーストの人物相関図は圧巻だ。カプール家、バッチャン家をはじめ、血族内に映画人が多すぎる。しかも映画カースト同士の結婚も多く、本人の感情より家系重視に見える感じはまさにジャーティを連想させる。特にアーリヤー・バットとランビール・カプール、ディーピカー・パードゥコーンとランヴィール・シンの2カップルの対比には、解説の明快さゆえに目眩がした。他方で、歌や踊りなど奥深い素養が要求されるインド映画ゆえに映画カーストの家系にあるアドバンテージは大きく、日本の伝統芸能だって排他的な面も無いとは言えないのは同じ。
編者の夏目さん自身が「RRR」を楽しんだとしつつも手厳しい批判を投げかける。構成をはじめアクションや踊り全てが秀でているゆえに、観る側を思考停止させる。確信犯的に宗主国支配の図式を単純化しているのは確かだ。最近のモディの自国賛美、ヒンドゥー教以外の宗教を貶めるやりかたも大問題ではある。しかしそれはそれで胸に留めて、インド映画全般に言えることだが、荒唐無稽上等、ポリコレ棚上げで、大地の豊かな美しさ、家族重視の暮らし、群集のエネルギーや文化を、逃避だけではない楽しみとして観る側としては何度も味わいたいと願う。
読了日:08月23日 著者:夏目 深雪
穴 (新潮文庫)の感想
それほど主体性のある女性ではない。穴に入ったことにより変異が起きたわけではなくて、引越しを承諾した時から、主人公にとって変異の始まりだったのだろう。結婚して他家に入る、それも相手の肉親と近い距離に住むほど、それは異世界だ。今まで起こり得なかった場面に躊躇ううちに慣れてゆく。いわゆる嫁の立場に共感を覚えつつも、最も近しく感じたのは姑である。姑も昔は嫁だった。主人公と違い、頑張り屋の女性が奮闘する日々が目に浮かぶ。望んで家制度に加担するんじゃない。うまくやっていこうとがんばってきた女性の姿に、実の姑も重なる。
読了日:08月19日 著者:小山田 浩子
木を植えた男の感想
木を植える。土を整えて種を埋め込む行為は、人間だけのものだ。それもごく限られた意志ある人だけの。ほんとうは、獣や鳥が土を肥やし、種が運ばれて自然に繁るはずの植物がここには無い。集落があるのだからもとは森だったはずなのに、なぜ無くなったのか。人々の様子から殺伐とした経緯が推測される。男は苗を喰われないよう、本業であった羊飼いをやめてまで木を植え続ける。その行為への賛歌だけれど、今並行して読んでいる本に影響されて、生態系が失われた理由、人が木を植える行為で生態系をつくりだすことができるかを考えてしまう。
読了日:08月19日 著者:ジャン ジオノ
感動する、を考えるの感想
感動ということばを努めて使わなくなって久しい。私が定義するなら、他者あるいは、命を含めた自然との共振だろうか。名前をつけずに味わい、その意味を思い返す類の。だから、感を動かすことを目的にして何かを見たり聴いたりするのは違うのではないかとも思うが、ではなぜ自分が小説を読み映画を観るのかという問いにけつまずく。些細な事にも深く感動できるほうが、人として成熟度が高いとして。だからこそ、安易な感動に心を費やさないほうが、感度を鈍らさず、心を澄ましていられると結論しておく。他者の感動は他者のもの。
いつもは録画までしていた開会式も閉会式も観ず、ボイコットしたパリ五輪の夏に。
読了日:08月12日 著者:相良 敦子
百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術の感想
『生きるとは、本といた季節の記憶』。本の匂いに酔っているのか酒に酔っているのか自分に酔っているのか、私情を切り分けず読書の悦楽を気儘に書き散らしたような読書本。速読/遅読、孤独/共有、買う/借りるなど相反する方法論を逆手にとって、A面/B面と併記するのが面白い。新聞書評のために費やす新聞社の手間暇、書評委員会での合議の様子は初めて知った。本屋へ行くと貼ってあるのを必ず読む。紙の新聞の存亡が危ぶまれる今後、どうなるだろうかな。文章の漢字だけに目を跳ばせて概要を掴むコツを覚えた。
読了日:08月08日 著者:近藤 康太郎
インド文化入門 (ちくま学芸文庫)の感想
多様極まりないインドにおいて、先にいたドラヴィダ民族と、北西方面から後からやってきたアーリヤ民族という大軸で南北の間に摩擦は生じ、一方で両文化の混交によって今のインド文化が形成されている奥深さったらない。無論その2民族のみで括れるインドでもない。ラーマーヤナが南アジア普く広まり愛されている点に政治的な意図を感じたこともあったが、むしろ地域によって土着の神や伝統と混じり無数のバージョンを展開しているあたり、どうやってもこの国の人々は一元化されたりしないのだなと感嘆した。『インド人全体で行ってきた文化表現』。
モンゴル帝国が内紛している頃、中国から中東・欧州にかけての海上交通が盛んになり、インドの港町が栄えたというマクロな世界史観もダイナミックで素敵だ。チョーラ王ラージャラージャ1世の像や記録も残っている。上半身裸で頭には布を巻くか王冠をかぶっている、その描写はPS1&PS2のアルンモリそのものだ。道理で露出度高かった。タミルの民にとっての宗教、仏教とヒンドゥー教の重さ加減や、ランカ島における仏教の重さなど、映画の中によく表わされていた。あの市場には異国のものも多々取引されていたのだろう。
女性蔑視と女神崇拝、母親至上主義が混じりあった、映画に表れる女性の描かれかたをずっと不思議に感じていた。実際にやはり二面性をもって存在するようだ。女性差別は、マヌ法典まで遡るヒンドゥー教的倫理によって。女神崇拝はさらにアーリヤ民族進出以前、古来の伝統的な土俗の神が、後から来た宗教に取り込まれる形で存在を確立し、今も崇められているということなんだろう。その両方が現代を生きる個人の中で両立するのが、やっぱり不思議だけども。
読了日:08月07日 著者:辛島 昇
自然流石けん読本 (サンマーク文庫 A- 4)の感想
著者はシャボン玉石けんの創業者である。大手メーカーが巨額の広告費をかけて売り込む合成洗剤の実害と欺瞞に憤りをもって、自ら無添加石けん製造販売の拡大に人生を懸けた。私たちは洗剤を、用途に合わせて使い分けなければならないと信じ込んでいる。即ち信じるよう仕向けられている。著者が当時指摘した資本主義が事実を歪めるやりかた、メーカーによる洗脳は今も解けず、加速度的に人間のからだと環境を蝕んでいるといっていい。全ての洗濯、掃除、身体のケアは石けんひとつでじゅうぶん、と著者は断言する。ここからまた、暮らしを見直したい。
とはいえ、時代は進む。石けんを液体にするのも、歯磨き粉の製造にも著者は肯定的でなかったが、今の社長がそれから何代目か、シャボン玉石けんは液体になったり、ポンプボトルから泡状で出たり、現代の形に添った展開を見せている。スノールも今は液体のものを指すらしい。ここはあえて粉せっけんを導入してみる。使いやすさ、と私が思っているものと、ほんとうの使いやすさのギャップを探ってみる。
手洗いや洗顔と洗濯は石けんに切替済みである。これは、思い返せば私の身体が悲鳴を上げていたからで、石けんに切り替えて症状が落ち着いてからはすっかり忘れていた。確認してみるとシャンプーはノンシリコンながら合成洗剤、手や環境に優しいと謳うハッピーエレファントも合成洗剤。品質表示を面倒がらずにひとつひとつ確認する必要がある。それから、"薬用"も"エキス配合"も安易に飛びつかないこと。良さそうな自然素材も、素地に混ぜても即ちそのものの効果があるとは限らず、人体に害をなすこともある。ならば元より無いほうがいい。
読了日:08月04日 著者:森田 光德
台北プライベートアイ (文春文庫 キ 19-1)の感想
高野さんが面白いと書いていたので。台北のオモテ側しか歩いたことはないけれど、あの匂いと雑然とした路地、それをもっとディープにした景色を想像しながら読んだ。威勢の良さそうな台湾語の悪態は聞いてみたい。でもそれ以外は、犯罪を含め普通、というか、日本と変わりない民主主義社会で起きる事件のミステリである。社会も似ている。ただ台湾の都市部は日本以上に監視カメラ社会のようだ。家を出てからの全ての行動が録画されているに等しく、それが謎となり鍵となる。続編が出ているが、それはもういいかな。
読了日:08月01日 著者:紀 蔚然
注:は電子書籍で読んだ本。
読書と酒と虫の音。
そんな近未来を想像してうっとりする。
<今月のデータ>
購入27冊、購入費用34,427円。
読了15冊。
積読本334冊(うちKindle本158冊)。
チョプラ警部の思いがけない相続 (ハーパーBOOKS)の感想
舞台はムンバイ。だからといって冒頭『退職することになっていたその日の朝、チョプラ警部は自分が象を一頭、相続したことを知った』に度肝を抜かれないわけではない。子象とはいえ象は象。さっきからこの文章の漢字変換もまともじゃない。象が出てこなければならない理由は、ない。著者はきっと、新興巨大ショッピングモールのエスカレーターに乗る子象とか、リビングで妻とドラマを観る子象、雨期の洪水により裏庭で溺れかける子象、ムンバイを疾走する子象などを描きたかったんじゃないか。なんで小象なのか。何か企みがあると信じて続きを待つ。
読了日:08月31日 著者:ヴァシーム カーン
捕食者なき世界 (文春文庫 S 12-1)の感想
人間は平地に降り立つや、脅威となる大型捕食動物の殲滅を開始した可能性がある。それはここ数百年に至っては明白で、オオカミもクマも大型ネコ科動物も、脅威の排除、あるいは娯楽や収入のため殺し続けている。結果、被捕食動物=中間捕食者が増え、多量に捕食したために生態系の均衡を欠き、壊滅に至る壮大なメルトダウンが既に観察されている。頂点捕食動物の復権を実行すれば、中間捕食者は健全な恐怖心を取り戻し、植生は復活し、生態は多様性を取り戻せる。しかし「健全な恐怖心」を失っているのは人間も同じだろう。望みは限りなく薄いかと。
例えば日本。オオカミ復活論はずいぶん前から提唱されているけれど、今、どれだけの日本人がその"脅威"を受け入れられるだろう。彼らと共生する能力、天然の危険を回避する術はずいぶん忘れ果てた。かといってオオカミの代わりにシカやイノシシを狩れるだけのハンター数を、既に維持できていない。代わりとなるべきイヌは繋がれている。恐怖心なき食害によって、山林の植生は貧しくなり、荒れ、崩れ、また植物も防衛能力を発動して変化してゆくと予測される。人間はひたすら排除と逃避を繰り返すのか。なんて殺伐として壊滅的な未来像だろう。
原題「Where the Wild Things Were」。『現時点でわかっていることから、生物多様性を維持する上で、頂点捕食者は重大でかけがえのない調整の役割を担っていると思われる。頂点捕食者がいなければ、急速かつ広範な絶滅が進み、生態系は単調なものになるだろう』。
読了日:08月29日 著者:ウィリアム ソウルゼンバーグ
水納島再訪の感想
『このまま行けば無人島になる』。水納島には130年の歴史がある。あるいは、130年しかない。島の歴史は沖縄を通じて日本の歴史と、島の人から聞く話は公の記録文書と繋がっている。戦後、増えた人口に対し、僻地から離島、果ては海外まで生きる場所を施策しなければならなかった日本は、今や急激な人口減少に直面し、水納島は先端を行っていると言える。誰も住まなくなれば、伝え繋ぐ痕跡は消えてしまう。人々が語る暮らしのたくましさ、豊かさを感じ取るとき、僻地を復興・振興するのは経済的に無駄とする思考の貧乏臭さを痛切に思う。
読了日:08月27日 著者:橋本 倫史
WILDERNESS AND RISK 荒ぶる自然と人間をめぐる10のエピソードの感想
あちこちの媒体に書いた初期のノンフィクション記事集。調査を基に書かれたクラカワーのノンフィクションが面白いのは「荒野へ」で承知済みだ。事実をスマートに記述するだけではなく、クラカワー自身の実体験が裏打ちし、取材対象に重ね合わせてみせることで、よりリアルに想像させる。苦難があるからこそ魅力的で甘美な体感が得られる活動は、人口が増えればそのぶん自然破壊や危険を増すものでもある。この本に採録された文章には、責任のなすりつけ訴訟や詐欺めいた荒野療法など、アメリカ特有の諸問題も取り上げられていて興味深かった。
読了日:08月24日 著者:ジョン・クラカワー
飛躍するインド映画の世界の感想
祭りだ! 観た/観てないに拘わらず嬉々として読む。北インドのヒンディー語圏映画と南インドのドラヴィタ語圏映画の対比は、どちらが優れている如何ではないながら、私にはやはり南インド映画が魅力的だ。ざっくり南インドのほうが教育水準が高く、温暖で食べものが豊富な土地柄であること、また辺境でありながら交易の拠点でもあった歴史が、文化的な豊かさ、感情表現の豊かさにつながっていると感じる。映画音楽の旋律と韻律の魅力といったら。A.R.ラフマーンの、南インド映画のほうが作曲をやりやすく冒険もできるとのコメントも納得。
映画カーストの人物相関図は圧巻だ。カプール家、バッチャン家をはじめ、血族内に映画人が多すぎる。しかも映画カースト同士の結婚も多く、本人の感情より家系重視に見える感じはまさにジャーティを連想させる。特にアーリヤー・バットとランビール・カプール、ディーピカー・パードゥコーンとランヴィール・シンの2カップルの対比には、解説の明快さゆえに目眩がした。他方で、歌や踊りなど奥深い素養が要求されるインド映画ゆえに映画カーストの家系にあるアドバンテージは大きく、日本の伝統芸能だって排他的な面も無いとは言えないのは同じ。
編者の夏目さん自身が「RRR」を楽しんだとしつつも手厳しい批判を投げかける。構成をはじめアクションや踊り全てが秀でているゆえに、観る側を思考停止させる。確信犯的に宗主国支配の図式を単純化しているのは確かだ。最近のモディの自国賛美、ヒンドゥー教以外の宗教を貶めるやりかたも大問題ではある。しかしそれはそれで胸に留めて、インド映画全般に言えることだが、荒唐無稽上等、ポリコレ棚上げで、大地の豊かな美しさ、家族重視の暮らし、群集のエネルギーや文化を、逃避だけではない楽しみとして観る側としては何度も味わいたいと願う。
読了日:08月23日 著者:夏目 深雪
穴 (新潮文庫)の感想
それほど主体性のある女性ではない。穴に入ったことにより変異が起きたわけではなくて、引越しを承諾した時から、主人公にとって変異の始まりだったのだろう。結婚して他家に入る、それも相手の肉親と近い距離に住むほど、それは異世界だ。今まで起こり得なかった場面に躊躇ううちに慣れてゆく。いわゆる嫁の立場に共感を覚えつつも、最も近しく感じたのは姑である。姑も昔は嫁だった。主人公と違い、頑張り屋の女性が奮闘する日々が目に浮かぶ。望んで家制度に加担するんじゃない。うまくやっていこうとがんばってきた女性の姿に、実の姑も重なる。
読了日:08月19日 著者:小山田 浩子
木を植えた男の感想
木を植える。土を整えて種を埋め込む行為は、人間だけのものだ。それもごく限られた意志ある人だけの。ほんとうは、獣や鳥が土を肥やし、種が運ばれて自然に繁るはずの植物がここには無い。集落があるのだからもとは森だったはずなのに、なぜ無くなったのか。人々の様子から殺伐とした経緯が推測される。男は苗を喰われないよう、本業であった羊飼いをやめてまで木を植え続ける。その行為への賛歌だけれど、今並行して読んでいる本に影響されて、生態系が失われた理由、人が木を植える行為で生態系をつくりだすことができるかを考えてしまう。
読了日:08月19日 著者:ジャン ジオノ
感動する、を考えるの感想
感動ということばを努めて使わなくなって久しい。私が定義するなら、他者あるいは、命を含めた自然との共振だろうか。名前をつけずに味わい、その意味を思い返す類の。だから、感を動かすことを目的にして何かを見たり聴いたりするのは違うのではないかとも思うが、ではなぜ自分が小説を読み映画を観るのかという問いにけつまずく。些細な事にも深く感動できるほうが、人として成熟度が高いとして。だからこそ、安易な感動に心を費やさないほうが、感度を鈍らさず、心を澄ましていられると結論しておく。他者の感動は他者のもの。
いつもは録画までしていた開会式も閉会式も観ず、ボイコットしたパリ五輪の夏に。
読了日:08月12日 著者:相良 敦子
百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術の感想
『生きるとは、本といた季節の記憶』。本の匂いに酔っているのか酒に酔っているのか自分に酔っているのか、私情を切り分けず読書の悦楽を気儘に書き散らしたような読書本。速読/遅読、孤独/共有、買う/借りるなど相反する方法論を逆手にとって、A面/B面と併記するのが面白い。新聞書評のために費やす新聞社の手間暇、書評委員会での合議の様子は初めて知った。本屋へ行くと貼ってあるのを必ず読む。紙の新聞の存亡が危ぶまれる今後、どうなるだろうかな。文章の漢字だけに目を跳ばせて概要を掴むコツを覚えた。
読了日:08月08日 著者:近藤 康太郎
インド文化入門 (ちくま学芸文庫)の感想
多様極まりないインドにおいて、先にいたドラヴィダ民族と、北西方面から後からやってきたアーリヤ民族という大軸で南北の間に摩擦は生じ、一方で両文化の混交によって今のインド文化が形成されている奥深さったらない。無論その2民族のみで括れるインドでもない。ラーマーヤナが南アジア普く広まり愛されている点に政治的な意図を感じたこともあったが、むしろ地域によって土着の神や伝統と混じり無数のバージョンを展開しているあたり、どうやってもこの国の人々は一元化されたりしないのだなと感嘆した。『インド人全体で行ってきた文化表現』。
モンゴル帝国が内紛している頃、中国から中東・欧州にかけての海上交通が盛んになり、インドの港町が栄えたというマクロな世界史観もダイナミックで素敵だ。チョーラ王ラージャラージャ1世の像や記録も残っている。上半身裸で頭には布を巻くか王冠をかぶっている、その描写はPS1&PS2のアルンモリそのものだ。道理で露出度高かった。タミルの民にとっての宗教、仏教とヒンドゥー教の重さ加減や、ランカ島における仏教の重さなど、映画の中によく表わされていた。あの市場には異国のものも多々取引されていたのだろう。
女性蔑視と女神崇拝、母親至上主義が混じりあった、映画に表れる女性の描かれかたをずっと不思議に感じていた。実際にやはり二面性をもって存在するようだ。女性差別は、マヌ法典まで遡るヒンドゥー教的倫理によって。女神崇拝はさらにアーリヤ民族進出以前、古来の伝統的な土俗の神が、後から来た宗教に取り込まれる形で存在を確立し、今も崇められているということなんだろう。その両方が現代を生きる個人の中で両立するのが、やっぱり不思議だけども。
読了日:08月07日 著者:辛島 昇
自然流石けん読本 (サンマーク文庫 A- 4)の感想
著者はシャボン玉石けんの創業者である。大手メーカーが巨額の広告費をかけて売り込む合成洗剤の実害と欺瞞に憤りをもって、自ら無添加石けん製造販売の拡大に人生を懸けた。私たちは洗剤を、用途に合わせて使い分けなければならないと信じ込んでいる。即ち信じるよう仕向けられている。著者が当時指摘した資本主義が事実を歪めるやりかた、メーカーによる洗脳は今も解けず、加速度的に人間のからだと環境を蝕んでいるといっていい。全ての洗濯、掃除、身体のケアは石けんひとつでじゅうぶん、と著者は断言する。ここからまた、暮らしを見直したい。
とはいえ、時代は進む。石けんを液体にするのも、歯磨き粉の製造にも著者は肯定的でなかったが、今の社長がそれから何代目か、シャボン玉石けんは液体になったり、ポンプボトルから泡状で出たり、現代の形に添った展開を見せている。スノールも今は液体のものを指すらしい。ここはあえて粉せっけんを導入してみる。使いやすさ、と私が思っているものと、ほんとうの使いやすさのギャップを探ってみる。
手洗いや洗顔と洗濯は石けんに切替済みである。これは、思い返せば私の身体が悲鳴を上げていたからで、石けんに切り替えて症状が落ち着いてからはすっかり忘れていた。確認してみるとシャンプーはノンシリコンながら合成洗剤、手や環境に優しいと謳うハッピーエレファントも合成洗剤。品質表示を面倒がらずにひとつひとつ確認する必要がある。それから、"薬用"も"エキス配合"も安易に飛びつかないこと。良さそうな自然素材も、素地に混ぜても即ちそのものの効果があるとは限らず、人体に害をなすこともある。ならば元より無いほうがいい。
読了日:08月04日 著者:森田 光德
台北プライベートアイ (文春文庫 キ 19-1)の感想
高野さんが面白いと書いていたので。台北のオモテ側しか歩いたことはないけれど、あの匂いと雑然とした路地、それをもっとディープにした景色を想像しながら読んだ。威勢の良さそうな台湾語の悪態は聞いてみたい。でもそれ以外は、犯罪を含め普通、というか、日本と変わりない民主主義社会で起きる事件のミステリである。社会も似ている。ただ台湾の都市部は日本以上に監視カメラ社会のようだ。家を出てからの全ての行動が録画されているに等しく、それが謎となり鍵となる。続編が出ているが、それはもういいかな。
読了日:08月01日 著者:紀 蔚然
注:は電子書籍で読んだ本。
Posted by nekoneko at 14:16│Comments(0)
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