2019年04月01日
2019年3月の記録
読書メーターの字数制限が255字なので、その枠筒一杯に書くよう心掛けている。
頑張って255字をひねり出す本もあれば、到底足りない本もある。
溢れるように言葉が出てくる類の本は、読んだ甲斐がある。
それだけ何かを感じ、忘れないうちに留めておきたいと思った故だからだ。
というわけで、今月の「街道をゆく」は異論なく今年のメモリアルな1冊。
<今月のデータ>
購入12冊、購入費用9,783円。
読了11冊。
積読本154冊(うちKindle本50冊)。

3月の読書メーター
読んだ本の数:11
世界史としての日本史 (小学館新書)の感想
現代は「ほんとうの歴史」を知るのが難しい時代だと思う。政治家は無論、メディアや新聞、知識人であっても、歴史的事実に基づかない事を真実のように断言するからだ。書店の平台も信用してはいけない。この対談のお二人は、歴史の専門家ではない。しかし、各々の目的のために、膨大な著作や資料から歴史の確かなところを押さえる作業を繰り返した結果として、正しい知識を蓄積した知の巨人と成った。半藤氏は戦中戦後の実体験、出口氏は経済面からの分析も興味深い。私はこのお二人の著作を信頼する。一方、これを自虐史観と呼ぶ人を信用しない。
読了日:03月31日 著者:半藤 一利,出口 治明
破戒の感想
一言で言うと、カミングアウトの物語だ。私の学生時代、「穢多」は歴史の教科書に載っていたのみに思う。この身分差別用語そのものはもうないが、似た種類の差別、マイノリティ差別は今も厳然としてあり、それを思い浮かべると現代人の胸にも迫ること間違いない。破戒とは父の戒めを破る事を指す。その音が、破壊と二重写しに見えるのは作者の意図だろうか。人格の破壊、人生の破壊。破壊者は無邪気なものだ。丑松の煩悶の内でも、肉親への裏切りよりも蓮太郎への裏切りのほうが丑松を苦しめた。そしてペテロ。先生と慕うことは信仰に似ている。
読了日:03月24日 著者:島崎 藤村
街道をゆく 40 台湾紀行 (朝日文庫)の感想
李登輝をはじめとする台湾人と会い、話し、読んだ資料と思い合わせて綴った台湾紀行。司馬遼太郎の関心は、いつもどおりそこに生きた人、生きている人のことだ。1990年に台湾総統の座に就いた李登輝は、戦前京大に通い、司馬遼太郎と同時期に日本人として兵役についた経歴を持つ。二人の対話の端々には、同じ時代を生き、共通の体感をしたからこその親しみがにじむ。あの50年の"日本時代"は何だったのだろう。その後の漢民族支配、遡ってオランダの支配。それよりずっと前からの原住民族は16以上といわれ、今も文化は残る。台湾、深い。
『三百年も独力でひとびとが暮らしをつづけてきたこの孤島を、かつて日本がその領土にしたことがまちがいだったように、人間の尊厳という場からいえば、既存のどの国も海を越えてこの島を領有しにくるべきでないとおもった』。
日本人は日清戦争終結から太平洋戦争終結までの50年間、台湾を植民地支配した。その間、ダムや下水などのインフラを整え、本土同様のレベルの大学を設立し、結果的に台湾の発展に寄与した。日本統治の過去がなければ、今の台湾は無い。だとしても、日本のしたことは許されない。なぜなら言語や信仰の押しつけも、文化の否定も、『他民族の自尊心という背骨をくだく』行為だからだ。台湾の宗教は道教、仏教、キリスト教が主である。台北市内の道教の廟を訪れた。その荘厳さ、訪れる人々の熱意にはただただ圧倒された。
一方、当時を生きた台湾人には、「日本人と自分は同じ国の民だった」という意識を未だ持っている人がいることに驚いた。また、台湾を訪れる日本人に台湾の人は概して優しい。こう言ってはなんだが、その後の漢民族の支配がひどすぎたので、対比で日本統治が懐かしく思える面はあるのだろう。だから、その子の世代も日本人を悪くは思っていないというところか。いずれにせよ、ありがたいことだ。台北を案内してくれたおじさんには感謝を伝えたつもりだったけど、今思うと全然言葉が足りない。もっと伝えればよかった。
読了日:03月23日 著者:司馬 遼太郎
台湾の「いいもの」を持ち帰る (講談社の実用BOOK)の感想
台湾へ遊びに行くので、予習に。美味の宝庫とは知っていたけれど、これは期待が高まる。雑貨、調味料、お菓子。著者の「いいもの」センサーの精度も然ることながら、流行りだからと安っちい現代品を求める者に媚びない、台湾人の「これだ」と信じるクオリティを貫いた気概の品の数々は、画面の向こうから私の心をがっちり掴んでしまった。表紙の電気鍋からして既に買い込みたい。そして、よく似た模造品を掴むのは避けたい。散々スクリーンショットしまくった挙句、これから書店に寄って本を手に入れたいと思っている。んで、旅に持って行く。
追記:行った結果から言うと、手に入る店を目指して行かないと手に入らないものばかりだった。ツアーの隙間時間では、これらの品に出会うことはできなかった。残念。
読了日:03月16日 著者:青木 由香
流の感想
青春物語としてもミステリとしても読むことができるが、私は故郷とは何か、どんな慈恵と束縛とを人に与えるかという命題を思った。この物語は葉家3世代が中心にいる。祖父母、両親、自分の時代の持つ色はそれぞれ違うものだ。主人公の時代もまた現代ではない。そして台湾という舞台。山東省から台湾に逃げ渡った祖父、台北の街で産まれ育った主人公、台湾で産まれ日本で育った著者。それぞれ胸に抱く故郷はどこだろう。祖父の持っていた荒々しさ、得体の知れなさは大陸と時代、即ち故郷の生んだもの。モーゼル銃は台湾と彼らの数奇を象徴している。
『どうしようもないことはどうしようもない、わからないものはわからない、解決できない問題は解決できない。それでもじっと我慢をしていれば、その出来事はいずれわたしたちのなかで痛みを抜き取られ、修復不能のままうずもれてゆく。そしてわたしたちを守る翡翠となる。そうだろ、じいちゃん?』
読了日:03月10日 著者:東山 彰良
神なるオオカミ・上の感想
果てしないモンゴルの草原と人々の暮らしの描写にたちまち魅了された。黄羊、犬、馬、羊、牛、野鴨や白鳥、そしてオオカミ。それらの調和を尊ぶ信仰と呼ぶべき民族の心。それは同じオオカミを神と頂いても、日本のそれとは似て非なる。漢民族である主人公は遊牧民族に憧れ、思索し仲間と討論するが、野鴨の卵を大量に食ったり、どうも遊牧民族にはなりきれないようだ。農耕民族と遊牧民族。漢民族とモンゴル民族。古来対立し攻め合ってきた中国の歴史の重奏。その思想や風習は、影響し合いもしたろうか。『オオカミの負けが、草原の負けの前ぶれ』。
読了日:03月09日 著者:姜 戎
駒井式 やさしい韓氏意拳入門の感想
自分を強く戒めたいのは、先生が練習は「量」ではないとおっしゃる件。これを真に受けてはいけない。著者も「質」が欲しいなら「量」は避けて通れないとはっきり指摘している。上達への道、近道はできないようになっているのだ。実戦の感覚すら、できれば手に入れておくべき要素。武術が難しいのは、文字や図にして残すことができない感覚的な部分が肝要だからだ。形を真似ても実がなければ、全く意味がない。だからこそ『感覚的な経験の共有』をすべく、師は弟子に様々な言葉、様々な方法で真髄を伝えようとする。QRは斬新だが、スマホでは、ね。
読了日:03月09日 著者:駒井 雅和
今日もいち日、ぶじ日記 (新潮文庫)の感想
「富士日記」の浮世離れした生活の匂いが私は好きでない。しかし著者は「富士日記」に憧れ、「ぶじ日記」と名づけた。『大人の女の人が、こんなことを本に書いてもいいんだ』と思ったと言う。だからだろう、著者が記す日々の暮らしはのびのびした印象を与え、日々のごはんの記録にも親近感を覚える。料理家なのに『おとついの残り』とか『スーパーで買った』とか、率直で素敵。『みいよう、追い詰められた動物みたいな顔になっとるで。風呂でも入って休憩せんにゃあ』。スイセイさんは優しい。スイセイさんを思う気持ちも文章に滲んでいて、好い。
読了日:03月09日 著者:高山 なおみ
壇蜜日記 (文春文庫 た 92-1)の感想
これだけ積読本があるのに、壇蜜のエッセイなど読んでいる場合か。と思いながら買ってしまった日記風エッセイ。やっぱり彼女は好い。意表を突く事を言おうという企みが見えるのに、嫌らしくない。いたずら心と真面目さ、虚像と素の按配、言葉と文章のセンスが好きだ。朝起きて、触った猫が湿っていたら今日は湿気の多い日。こんな話題を提供してくれる女主人がいる店なら、私は通いたい。と思う時点で、彼女の役割を限定した場所に押し込めているのだろうか。杏仁豆腐が美味しくなかったときに自分の舌を責めるなど、余りの自虐っぷりが心配になる。
読了日:03月08日 著者:壇 蜜
労働時間管理完全実務ハンドブックの感想
勉強して正しくやらねばと思いつつ数年積んでいた労働時間管理のテキスト。来月からの働き方改革関連法施行に伴い、お尻に火がつき、なんとか自社関連部分を読み切った。今回のことで厚生労働省から数多のパンフレットや解説が配布されているが、その内容を理解するには労働時間管理についての基本的な知識がないとさっぱり理解できないのだ。士さんを雇う気がないのであれば、自力で解釈しシステムを整えていくしかない。ぶ厚いが、自社に必要な項を拾えばよいと割り切れば、各項目は端的でありわかりやすい。これから経営者会議用の資料をつくる。
読了日:03月06日 著者:岩崎 仁弥,森 紀男
絶滅の人類史―なぜ「私たち」が生き延びたのか (NHK出版新書)の感想
ある仮説を立てたとして、その筋が通っていること即ち真実と認定することはできないという研究者のスタンスは重要である。そうなると人類の歴史には、立証の根拠が新発見されるのを待っている数多の仮説があるということだ。人類の犬歯が小さくなっていることからは、争い事の少なさを。歯がないまま数年生きた原人の化石から、協力し合って生きる社会的関係を。人類自身の進化には、祖先がサルの仲間であってほしくない思いなど、見解を歪める偏見や願望がつきまとうけれど、それでも自身のルーツを正しく解明したい思いは強いとわかって誇らしい。
読了日:03月04日 著者:更科 功
注:
はKindleで読んだ本。
頑張って255字をひねり出す本もあれば、到底足りない本もある。
溢れるように言葉が出てくる類の本は、読んだ甲斐がある。
それだけ何かを感じ、忘れないうちに留めておきたいと思った故だからだ。
というわけで、今月の「街道をゆく」は異論なく今年のメモリアルな1冊。
<今月のデータ>
購入12冊、購入費用9,783円。
読了11冊。
積読本154冊(うちKindle本50冊)。

3月の読書メーター
読んだ本の数:11

現代は「ほんとうの歴史」を知るのが難しい時代だと思う。政治家は無論、メディアや新聞、知識人であっても、歴史的事実に基づかない事を真実のように断言するからだ。書店の平台も信用してはいけない。この対談のお二人は、歴史の専門家ではない。しかし、各々の目的のために、膨大な著作や資料から歴史の確かなところを押さえる作業を繰り返した結果として、正しい知識を蓄積した知の巨人と成った。半藤氏は戦中戦後の実体験、出口氏は経済面からの分析も興味深い。私はこのお二人の著作を信頼する。一方、これを自虐史観と呼ぶ人を信用しない。
読了日:03月31日 著者:半藤 一利,出口 治明


一言で言うと、カミングアウトの物語だ。私の学生時代、「穢多」は歴史の教科書に載っていたのみに思う。この身分差別用語そのものはもうないが、似た種類の差別、マイノリティ差別は今も厳然としてあり、それを思い浮かべると現代人の胸にも迫ること間違いない。破戒とは父の戒めを破る事を指す。その音が、破壊と二重写しに見えるのは作者の意図だろうか。人格の破壊、人生の破壊。破壊者は無邪気なものだ。丑松の煩悶の内でも、肉親への裏切りよりも蓮太郎への裏切りのほうが丑松を苦しめた。そしてペテロ。先生と慕うことは信仰に似ている。
読了日:03月24日 著者:島崎 藤村


李登輝をはじめとする台湾人と会い、話し、読んだ資料と思い合わせて綴った台湾紀行。司馬遼太郎の関心は、いつもどおりそこに生きた人、生きている人のことだ。1990年に台湾総統の座に就いた李登輝は、戦前京大に通い、司馬遼太郎と同時期に日本人として兵役についた経歴を持つ。二人の対話の端々には、同じ時代を生き、共通の体感をしたからこその親しみがにじむ。あの50年の"日本時代"は何だったのだろう。その後の漢民族支配、遡ってオランダの支配。それよりずっと前からの原住民族は16以上といわれ、今も文化は残る。台湾、深い。
『三百年も独力でひとびとが暮らしをつづけてきたこの孤島を、かつて日本がその領土にしたことがまちがいだったように、人間の尊厳という場からいえば、既存のどの国も海を越えてこの島を領有しにくるべきでないとおもった』。
日本人は日清戦争終結から太平洋戦争終結までの50年間、台湾を植民地支配した。その間、ダムや下水などのインフラを整え、本土同様のレベルの大学を設立し、結果的に台湾の発展に寄与した。日本統治の過去がなければ、今の台湾は無い。だとしても、日本のしたことは許されない。なぜなら言語や信仰の押しつけも、文化の否定も、『他民族の自尊心という背骨をくだく』行為だからだ。台湾の宗教は道教、仏教、キリスト教が主である。台北市内の道教の廟を訪れた。その荘厳さ、訪れる人々の熱意にはただただ圧倒された。
一方、当時を生きた台湾人には、「日本人と自分は同じ国の民だった」という意識を未だ持っている人がいることに驚いた。また、台湾を訪れる日本人に台湾の人は概して優しい。こう言ってはなんだが、その後の漢民族の支配がひどすぎたので、対比で日本統治が懐かしく思える面はあるのだろう。だから、その子の世代も日本人を悪くは思っていないというところか。いずれにせよ、ありがたいことだ。台北を案内してくれたおじさんには感謝を伝えたつもりだったけど、今思うと全然言葉が足りない。もっと伝えればよかった。
読了日:03月23日 著者:司馬 遼太郎


台湾へ遊びに行くので、予習に。美味の宝庫とは知っていたけれど、これは期待が高まる。雑貨、調味料、お菓子。著者の「いいもの」センサーの精度も然ることながら、流行りだからと安っちい現代品を求める者に媚びない、台湾人の「これだ」と信じるクオリティを貫いた気概の品の数々は、画面の向こうから私の心をがっちり掴んでしまった。表紙の電気鍋からして既に買い込みたい。そして、よく似た模造品を掴むのは避けたい。散々スクリーンショットしまくった挙句、これから書店に寄って本を手に入れたいと思っている。んで、旅に持って行く。
追記:行った結果から言うと、手に入る店を目指して行かないと手に入らないものばかりだった。ツアーの隙間時間では、これらの品に出会うことはできなかった。残念。
読了日:03月16日 著者:青木 由香


青春物語としてもミステリとしても読むことができるが、私は故郷とは何か、どんな慈恵と束縛とを人に与えるかという命題を思った。この物語は葉家3世代が中心にいる。祖父母、両親、自分の時代の持つ色はそれぞれ違うものだ。主人公の時代もまた現代ではない。そして台湾という舞台。山東省から台湾に逃げ渡った祖父、台北の街で産まれ育った主人公、台湾で産まれ日本で育った著者。それぞれ胸に抱く故郷はどこだろう。祖父の持っていた荒々しさ、得体の知れなさは大陸と時代、即ち故郷の生んだもの。モーゼル銃は台湾と彼らの数奇を象徴している。
『どうしようもないことはどうしようもない、わからないものはわからない、解決できない問題は解決できない。それでもじっと我慢をしていれば、その出来事はいずれわたしたちのなかで痛みを抜き取られ、修復不能のままうずもれてゆく。そしてわたしたちを守る翡翠となる。そうだろ、じいちゃん?』
読了日:03月10日 著者:東山 彰良

果てしないモンゴルの草原と人々の暮らしの描写にたちまち魅了された。黄羊、犬、馬、羊、牛、野鴨や白鳥、そしてオオカミ。それらの調和を尊ぶ信仰と呼ぶべき民族の心。それは同じオオカミを神と頂いても、日本のそれとは似て非なる。漢民族である主人公は遊牧民族に憧れ、思索し仲間と討論するが、野鴨の卵を大量に食ったり、どうも遊牧民族にはなりきれないようだ。農耕民族と遊牧民族。漢民族とモンゴル民族。古来対立し攻め合ってきた中国の歴史の重奏。その思想や風習は、影響し合いもしたろうか。『オオカミの負けが、草原の負けの前ぶれ』。
読了日:03月09日 著者:姜 戎


自分を強く戒めたいのは、先生が練習は「量」ではないとおっしゃる件。これを真に受けてはいけない。著者も「質」が欲しいなら「量」は避けて通れないとはっきり指摘している。上達への道、近道はできないようになっているのだ。実戦の感覚すら、できれば手に入れておくべき要素。武術が難しいのは、文字や図にして残すことができない感覚的な部分が肝要だからだ。形を真似ても実がなければ、全く意味がない。だからこそ『感覚的な経験の共有』をすべく、師は弟子に様々な言葉、様々な方法で真髄を伝えようとする。QRは斬新だが、スマホでは、ね。
読了日:03月09日 著者:駒井 雅和

「富士日記」の浮世離れした生活の匂いが私は好きでない。しかし著者は「富士日記」に憧れ、「ぶじ日記」と名づけた。『大人の女の人が、こんなことを本に書いてもいいんだ』と思ったと言う。だからだろう、著者が記す日々の暮らしはのびのびした印象を与え、日々のごはんの記録にも親近感を覚える。料理家なのに『おとついの残り』とか『スーパーで買った』とか、率直で素敵。『みいよう、追い詰められた動物みたいな顔になっとるで。風呂でも入って休憩せんにゃあ』。スイセイさんは優しい。スイセイさんを思う気持ちも文章に滲んでいて、好い。
読了日:03月09日 著者:高山 なおみ

これだけ積読本があるのに、壇蜜のエッセイなど読んでいる場合か。と思いながら買ってしまった日記風エッセイ。やっぱり彼女は好い。意表を突く事を言おうという企みが見えるのに、嫌らしくない。いたずら心と真面目さ、虚像と素の按配、言葉と文章のセンスが好きだ。朝起きて、触った猫が湿っていたら今日は湿気の多い日。こんな話題を提供してくれる女主人がいる店なら、私は通いたい。と思う時点で、彼女の役割を限定した場所に押し込めているのだろうか。杏仁豆腐が美味しくなかったときに自分の舌を責めるなど、余りの自虐っぷりが心配になる。
読了日:03月08日 著者:壇 蜜


勉強して正しくやらねばと思いつつ数年積んでいた労働時間管理のテキスト。来月からの働き方改革関連法施行に伴い、お尻に火がつき、なんとか自社関連部分を読み切った。今回のことで厚生労働省から数多のパンフレットや解説が配布されているが、その内容を理解するには労働時間管理についての基本的な知識がないとさっぱり理解できないのだ。士さんを雇う気がないのであれば、自力で解釈しシステムを整えていくしかない。ぶ厚いが、自社に必要な項を拾えばよいと割り切れば、各項目は端的でありわかりやすい。これから経営者会議用の資料をつくる。
読了日:03月06日 著者:岩崎 仁弥,森 紀男

ある仮説を立てたとして、その筋が通っていること即ち真実と認定することはできないという研究者のスタンスは重要である。そうなると人類の歴史には、立証の根拠が新発見されるのを待っている数多の仮説があるということだ。人類の犬歯が小さくなっていることからは、争い事の少なさを。歯がないまま数年生きた原人の化石から、協力し合って生きる社会的関係を。人類自身の進化には、祖先がサルの仲間であってほしくない思いなど、見解を歪める偏見や願望がつきまとうけれど、それでも自身のルーツを正しく解明したい思いは強いとわかって誇らしい。
読了日:03月04日 著者:更科 功

注:

Posted by nekoneko at 13:54│Comments(0)
│読書