2011年03月08日
本はどのように購うべきか
考えていると頭の中がパンパンになってきたので独白。
東野圭吾氏のエッセイを読んで以来、図書館問題あるいは新古書店問題について気になり考えるようになりました。それまで気づきもしなかったのだけれど、私の読書生活と切り離せない出版界及び作家諸氏と、一読者である私の捉えかたは全く違っていたようです。
本という存在は、言葉を用い思索を促し思想を扱う性質ゆえに特別な、それも人によって価値の異なる"商品"だと思います。だからむげに扱わないよう、敬意を持つよう心掛けています。
故に新古書店を重宝しています。
読み終えた本をリサイクルゴミの日に捨てたくはない。二束三文でも店に譲り渡して他の人に読んでもらえるなら環境に優しい。新古書店は経営の利便を優先するため値段が価値に見合わないことがある。流行の本だって誰かが買って読んでから持ち込むからこそ安価に手に入る。財布に優しい。万歳。と思っていました。
ですが、新古書店で何冊本を買っても、作家に収入はないという事実。これが出版業界全体を圧迫し、問題になっているのです。
そもそも昔ながらの古書店はよくて新古書店は悪いのか?とも思っていました。
学生の頃は店番がひとり座っているような古書店に入り浸ってぼろぼろの文庫を手に入れて喜んでいたから、本の価値わかってねぇな、くらいの違和感でそのまま新古書店を利用するようになりました。ここは、規模の問題などあるのだろうから、横に置いておくとして。
新古書店問題は、新刊として発売されて間もない本が新古書店に半値近くで出回ること。
図書館問題は、新刊として発売されて間もない本を図書館が購い、無料で貸し出すこと。
映像作品や音響作品との違い、制度が整備されていないとか、再販制度とか、媒体がアナログである点も関連するのかについては、正確に把握できていないので書きません。
それと目指して調べると、多数の作家がこれらの問題について発言していることが知れます。2つの意見を引用します。
馳星周氏のブログ 2002年2月3日
『買ってください。読んだら、捨ててください。自分の本が捨てられるのは悲しいが、存在意義を見失って利用者獲得にだけ突っ走る図書館を利用されるよりはよっぽどましだ。』
佐々木譲氏のブログ 2011年1月24日
『ある図書館でわたしの本が10人に借り出されたと聞けば、わたしは10冊分の印税がふいになったとは考えない。10人の読者ができたと考える。そしてそのうちのただのひとりにも、次は買おうと決意させることができなければ、それは作家としてのわたしの負けだ。』
たまたまどちらも図書館問題についての言及ですが、新古書問題にも共通するものとして捉えることができます。本職として鋭利なことばです。佐々木氏の意見は図書館容認でありながら、逆に容認すべきではないような気にさせられます。
著者の利権は確保すべき。読むなら対価は著作者に支払うべし。と理解しました。
また、こちらは報道やインターネット上の討議から。
2008年、ブックオフが一部著作者団体に1億円の支払いを申入れ。著作者側への著作物使用料的なもの、らしいが漠としている。「著作の譲渡権は新刊書が一度売れた段階で消える」点で話がおかしくなっているとのこと。
これは今年の話か、白石一文氏の単行本に発売後半年間、図書館で貸出しないでほしいと記載。この"半年間"はあちこちの討議で目につきました。ベストセラー単行本が刊行されて書店に平積みされるであろう期間が目安かと推測します。自身の新作がが図書館で貸出されることへの妥協点、のようです。それが実際に本に印字されたことが話題になっています。
等々。
こういったものを読んでいくと、根深く、結論を出しづらい問題であることがわかります。根本的には国の制度の部分が大きいので、個人がじたばたして変えられるものでもない。かといって変わらず古本を嬉々として買い漁り続けるのは後ろめたく、数少ない奇特な方に読まれるように文章をこうしてブログにして罪滅ぼしを装ってみるわけです。
書き下ろしを単行本でなく文庫で発売した東野氏や、上下巻に分かれて割高にならないよう出版社に働きかけたという馳氏のような読者への配慮も、聞くまで思いもしませんでした。
先週末はあてもなくブックオフをうろうろしてみました。
そして方針を立ててみました。
読みたいと思い悩むなら、素直に単行本を買おう。
単行本だからこそ味わえる満足感を知っているのだから。
新古書店で半値のハードカバーを買うなら、文庫を待って新刊で買おう。
コストはイーブンなのだから。
文庫の安くなったのは、新古書店で買おう。
それは熱を上げられる作家を探す作業なのだから。
読み終えた本を売ることについては…保留。
いくら面白くなくても私は本をリサイクルゴミとして捨てることはできない。
寄付を含めて、考えてみたいと思います。
東野圭吾氏のエッセイを読んで以来、図書館問題あるいは新古書店問題について気になり考えるようになりました。それまで気づきもしなかったのだけれど、私の読書生活と切り離せない出版界及び作家諸氏と、一読者である私の捉えかたは全く違っていたようです。
本という存在は、言葉を用い思索を促し思想を扱う性質ゆえに特別な、それも人によって価値の異なる"商品"だと思います。だからむげに扱わないよう、敬意を持つよう心掛けています。
故に新古書店を重宝しています。
読み終えた本をリサイクルゴミの日に捨てたくはない。二束三文でも店に譲り渡して他の人に読んでもらえるなら環境に優しい。新古書店は経営の利便を優先するため値段が価値に見合わないことがある。流行の本だって誰かが買って読んでから持ち込むからこそ安価に手に入る。財布に優しい。万歳。と思っていました。
ですが、新古書店で何冊本を買っても、作家に収入はないという事実。これが出版業界全体を圧迫し、問題になっているのです。
そもそも昔ながらの古書店はよくて新古書店は悪いのか?とも思っていました。
学生の頃は店番がひとり座っているような古書店に入り浸ってぼろぼろの文庫を手に入れて喜んでいたから、本の価値わかってねぇな、くらいの違和感でそのまま新古書店を利用するようになりました。ここは、規模の問題などあるのだろうから、横に置いておくとして。
新古書店問題は、新刊として発売されて間もない本が新古書店に半値近くで出回ること。
図書館問題は、新刊として発売されて間もない本を図書館が購い、無料で貸し出すこと。
映像作品や音響作品との違い、制度が整備されていないとか、再販制度とか、媒体がアナログである点も関連するのかについては、正確に把握できていないので書きません。
それと目指して調べると、多数の作家がこれらの問題について発言していることが知れます。2つの意見を引用します。
馳星周氏のブログ 2002年2月3日
『買ってください。読んだら、捨ててください。自分の本が捨てられるのは悲しいが、存在意義を見失って利用者獲得にだけ突っ走る図書館を利用されるよりはよっぽどましだ。』
佐々木譲氏のブログ 2011年1月24日
『ある図書館でわたしの本が10人に借り出されたと聞けば、わたしは10冊分の印税がふいになったとは考えない。10人の読者ができたと考える。そしてそのうちのただのひとりにも、次は買おうと決意させることができなければ、それは作家としてのわたしの負けだ。』
たまたまどちらも図書館問題についての言及ですが、新古書問題にも共通するものとして捉えることができます。本職として鋭利なことばです。佐々木氏の意見は図書館容認でありながら、逆に容認すべきではないような気にさせられます。
著者の利権は確保すべき。読むなら対価は著作者に支払うべし。と理解しました。
また、こちらは報道やインターネット上の討議から。
2008年、ブックオフが一部著作者団体に1億円の支払いを申入れ。著作者側への著作物使用料的なもの、らしいが漠としている。「著作の譲渡権は新刊書が一度売れた段階で消える」点で話がおかしくなっているとのこと。
これは今年の話か、白石一文氏の単行本に発売後半年間、図書館で貸出しないでほしいと記載。この"半年間"はあちこちの討議で目につきました。ベストセラー単行本が刊行されて書店に平積みされるであろう期間が目安かと推測します。自身の新作がが図書館で貸出されることへの妥協点、のようです。それが実際に本に印字されたことが話題になっています。
等々。
こういったものを読んでいくと、根深く、結論を出しづらい問題であることがわかります。根本的には国の制度の部分が大きいので、個人がじたばたして変えられるものでもない。かといって変わらず古本を嬉々として買い漁り続けるのは後ろめたく、数少ない奇特な方に読まれるように文章をこうしてブログにして罪滅ぼしを装ってみるわけです。
書き下ろしを単行本でなく文庫で発売した東野氏や、上下巻に分かれて割高にならないよう出版社に働きかけたという馳氏のような読者への配慮も、聞くまで思いもしませんでした。
先週末はあてもなくブックオフをうろうろしてみました。
そして方針を立ててみました。
読みたいと思い悩むなら、素直に単行本を買おう。
単行本だからこそ味わえる満足感を知っているのだから。
新古書店で半値のハードカバーを買うなら、文庫を待って新刊で買おう。
コストはイーブンなのだから。
文庫の安くなったのは、新古書店で買おう。
それは熱を上げられる作家を探す作業なのだから。
読み終えた本を売ることについては…保留。
いくら面白くなくても私は本をリサイクルゴミとして捨てることはできない。
寄付を含めて、考えてみたいと思います。
Posted by nekoneko at 18:08│Comments(0)
│読書