2019年09月02日
2019年8月の記録
ここまでと決めている積読本の棚がいよいよ詰んできた。
本を買うときに、「この本はもしや既に本棚にあるのでは」と恐れ始めた。
ちょちょっと読めるような本ほど、気軽に買って買ったことを忘れる。
さくさくとこなしにかかろうと思う。
いや待て。
長く積んでいる、ヘヴィなノンフィクションこそ手がけるべきでは。

<今月のデータ>
購入18冊、購入費用11,155円。
読了15冊。
積読本183冊(うちKindle本68冊)。

8月の読書メーター
読んだ本の数:15
杏の気分ほろほろ (朝日文庫)の感想
テレビで見かけない日が無いくらい活躍する杏のエッセイ第2弾。前作同様、嫌味がなくて真面目。そして彼女の文章の魅力はそれだけではない。好奇心旺盛で、新しいことを吸収することに熱心だ。行ったところ、体験したことどこからでも、もちろん読んだ本の中からも気づき、吸収できるのは素晴らしい素質だと思った。モデルから女優の仕事を始めて、それほど経っていないのだっけ。吸収したものは、いずれ醸成されて発揮されるのだろう。楽しみだ。「杏」の字をほどいて「ほろほろ」ってタイトルにつなげる感性が面白い。
読了日:08月29日 著者:杏
森の聖者 自然保護の父ジョン・ミューア (ヤマケイ文庫)の感想
ジョン・ミューアの伝記。ミューアの書いた文章は和訳が少なく、また代表的な和訳本も絶版になっているので読むことは難しいかもしれない。いずれ、この本は彼や当時のアメリカのことを知るのによかった。シエラネバダのジョン・ミューア・トレイルは本人が発案したものではない。しかし過度に舗装されることもなく、商業化されてもなく、ミューアの精神を感じ取るためには素敵な場所みたいだ。自然礼賛と巡礼の匂いがする。アメリカ人はこんな場所を生むこともできるのだな。いつか行きたいが、常人が全て歩き通すには1か月かかるとのこと。
19世紀末、とかく資源は強奪した者勝ちのアメリカにおいて、文明化のためには自然破壊やむなしの風潮にミューアは傲然と抗った。自然保護の思想は、破壊への反動なのだろうか。「自然は人間のための資源」と考える開発推進派との対立の中で、シエラクラブや数人の大統領をはじめ、自然との共存が必要と考える者が増えたのがこの頃で、自然保護運動の機運が国内に高まり、ミューアが"生ける伝説"と持ち上げられたのも時宜だったと言えるだろう。法的に保護しなければ全て壊されうるという前提は、日本も持った方がいい。
ミューアは根っからのナチュラリストで、本来はシエラネバダの自然の中に住んで歩き回ってさえいれば幸福な人だった。しかしそのシエラネバダやヨセミテをはじめの自然が開発という名の破壊行為に晒されるに至って、政治家や行政府に働きかける自然保護活動に全力を注がなければならなくなった。『自然保護運動は政治運動そのもの』。ロビー活動というと激しい政治的行為のように感じるが、戦わなければ自然は守れなかったのだ。それは今も、同じ。
読了日:08月29日 著者:加藤則芳
「昔はよかった」病 (新潮新書)の感想
酒席でこんな話を嬉々として喋る人の隣に座ってしまったら、10分で中座する自信がある。「昔はよかった」は「昔はよかったと思える自分は他者よりまともである」という認識の表面化にすぎない。実は昔もね、と昭和明治江戸と遡って新聞記事などを紹介するまではよいが、現代批判の安易さに呆れてしまった。与太話だね。さて熱中症のくだり。大正三年に秋吉台、昭和八年に富士裾野で陸軍の演習中にいずれも百人超が倒れ、数名が死亡する事件が起きている。八甲田山の暑熱版もあったと知る。こちらは新聞がほとんど批判しなかったというおまけつき。
読了日:08月25日 著者:パオロ・マッツァリーノ
生命と食 (岩波ブックレット)の感想
日本の狂牛病騒ぎが2001年。この冊子が発行された2008年には、とっくに日本人は狂牛病の事を忘れ去っていたはずだ。しかし改めて経緯を知ると寒気がする。草食動物である牛の子を肉や骨の粉(動物の死骸)で育てるという発想をはじめ、問題のある人的作為の大概は金の都合だ。『狂牛病は人災の連鎖』。この類の問題は解決していないどころか増える一方。私たちの身体は動的平衡にある。摂取したものは、文字どおり血肉になる。平衡状態の乱れが病ならば、私たちは注意深く自分の身を守らなければならない。安さで選べばそれなりの体になる。
読了日:08月25日 著者:福岡 伸一
下町ロケット ガウディ計画 (小学館文庫)の感想
中里が気になった。なぜなら、うちにも中里のように利発で鼻っ柱の強いのが何人かいるからだ。そして経営者は聖者ではない。言わんでいいことを言ってしまうし、そこらじゅうに矛盾は転がり、ずっといてくれるか不安にもなる。辞めると言われると、いつも凹む。「この会社じゃ夢がない」とか「泥船だ」とか思われたら負けだよな。でも、ただ人手が欲しいわけじゃない。成長を見たいんだよ。ちょっとやそっとで壊れない信頼関係。企業間でもそうであるように、会社と社員の間も信頼は一日では成らない。言葉と態度で日々積み重ねるしかないんだろう。
読了日:08月25日 著者:池井戸 潤
小商いのはじめかた:身の丈にあった小さな商いを自分ではじめるための本の感想
ボランティア活動のために、知名度向上と経費補填を兼ねてなにかヒントを得られないかと思って。ここに紹介される店主は皆ユニークで自由な印象を受ける。でももともとは、どこかの会社で窮屈さを感じた経験があったり、きっと「特別な人」ではない。小さなスキルと小さなセンス。なにかを売る。またはワークショップで人々と触れあう機会をつくる。自分に興味があることを取り上げるのがコツ。そこが難しいんだけど。長く続けようとか、儲けようとか思わずに、自分の遊びと思って始めるのが肝心みたいだ。お金の優先順位は3番目くらいにすること。
読了日:08月24日 著者:
雑草はなぜそこに生えているのか (ちくまプリマー新書)の感想
『道のオオバコは、みんな踏んでもらいたいと思っているはずである』。擬人化したくなるのも解る。世代を繋ぎ、種を拡散するため、雑草たちは思いも寄らない策を繰り出す。ゴルフ場で、刈られる高さに合わせて種子の生る高さを変えるよう進化するとは、スズメノカタビラ凄ぇ。ある調査では雑草の種子が畑1平米あたり75,000粒あった。埋土種子と呼ぶ。ほとんどの種子は土の中で休眠しているのだ。敵がいなくなった(=抜かれた)ときを狙って発芽するのだから、そりゃ抜いた端から生えてくるわな。もう、道端の雑草が気になって仕方ない。
読了日:08月22日 著者:稲垣 栄洋
誰も戦争を教えられない (講談社+α文庫)の感想
「あの戦争」を体で知る世代がいなくなり、ハコモノの博物館は大きな齟齬を抱えたまま経年劣化し続ける。そして日本には"唯一の真実"が無い。他国や日本の博物館を数々訪れたうえで、あえて戦争を知る必要はない、と著者は言う。「あの戦争」を知らず、息詰まる日常こそ平和と教えられた世代への解答のような結論だ。世界に散らばる無数の小さな記憶、その痕跡。これらの価値は高い。戦争の微細な出来事を事細かに記憶する必要はないのだ。ただ、その悲しみと愚かさを伝えるためだけに全ての展示物、全ての記憶に意味はある。私はそう考えたい。
小学生の高学年頃、子供向けの戦争ものばかり読んでいた時期がある。その所為と私は考えているのだが、上空を飛ぶ飛行機やヘリコプターの音が少しでも大きいと怖い。「アルキメデスの大戦」の冒頭シーンを、まるで自分の記憶のように錯覚したりもする。幼い頃に摂取したものは根深く残る。その私の戦争への忌避感に根深く巣食っていた思い込み、それは「次の世界戦争も総力戦」である。AIなどを軍事利用に開発する現代、徴兵制はオワコンか。人の死なない戦争などあり得るのか。何がOKで何がNOかを自分の中で突き詰めていかなければならない。
著者の言うように、古来から人間は戦争をせずにいられなかった。ならば次も必ずあるのだ。確かに、その形は第二次世界大戦とは全く違うだろう。しかし、よしんば無人機同士での戦闘や人工衛星の破壊が主になったとしても、いずれ人間の肉体と精神を損なうものに必ずなる。なぜなら戦争は相手の大事なものを強奪する手段であり、生身の人間が大きな何かに抵抗するには、まず自分の身体をもって行動するからだ。香港では既にデモを歩いているだけの人が傷つけられている。ましてや日本は過去の戦争についてすら結論することができない国なのだから。
読了日:08月21日 著者:古市 憲寿
我的日本:台湾作家が旅した日本の感想
若い作家の滞在記から、老練な作家の深みの際立つ随想まで、幅広い18篇。「在飛騨國分寺、新年許願」や「没有、我没有去過日本看櫻花」など、同胞向けに書かれたものを日本語に翻訳し、編んだものだ。日本の作家の外国滞在記はよく読むが、逆は不思議な感覚がすると知った。また、私の持ち合わせない教養と感性で、京都や建築や言葉に傾倒していただけることに感謝しつつ、いつか私もこんな風に台湾のことを思えるくらい、台湾に通ってディープに味わいたいと思う。恥ずかしながら読んだことのある作家は皆無なので、ぼちぼち読んでいこう。
読了日:08月19日 著者:
流星ひとつの感想
バーで8杯の火酒を呑む間のインタビューを、全編会話文だけで構成する趣向。年齢の似た二人の、相手を気遣ったり軽く茶化したりの長い会話は、大人らしく柔らかくも真剣だ。藤圭子を知らないからこそ、文章から脳裏に造形する藤圭子は、素直で芯の通った女性だった。後書きで出版までの経緯を読み、ようやく気づくのだ。彼女はこの後宇多田ヒカルを産み、病の末にマンションで自死したのだと。沢木耕太郎の言うとおり、このきらめきを無かったものにするのはもったいない。結末から逆算するのではない、この確かにあったきらめきをただ見上げる。
読了日:08月16日 著者:沢木 耕太郎
平成くん、さようならの感想
いかにも、平成の時代の都会の子。お金はあって、所有物にはたいていブランド名がついていて、食べたいものを食べる。結局のところ、彼がなぜ死にたがっているのかわからないんだよなぁ。『僕にもうこれ以上、欲を持たせないでよ』。自分のように受け答えするGoogleHomeをつくるようなことって、人生の遊びの部分だと思うし。じゃあ生身の人間と会話やスキンシップすることがその解決だと思っている気配は愛にもないし。ただ空疎が残る。生きてる実感?それって何?と聞かれても、答えづらい。令和はその反動の時代にならないかな。
読了日:08月13日 著者:古市 憲寿
新装版 武装島田倉庫 (小学館文庫)の感想
「戦争」から20年経った日本。国の統治は形骸化し、生き残った人間は敵や略奪者、突然変異のぬめぬめした生物らと戦いながら遺物を漁って生きている。架空の世界、架空の地名、架空の出来事なんだからSFだろうが、変てこな固有名詞ばかりの、見たことのない異世界だ。そしてやたら生臭い。水辺は油まみれの泥濘に変わり果て、汚れた油で厚く覆われた海面が、さざ波すら立てずにてらてらとのたる世界。青くない海。それこそがシーナさんにとってのディストピアの象徴ってところが面白い。"招魂酒"と書いて(ふぬけ)。わぁ、飲みたくないわぁ。
読了日:08月12日 著者:椎名 誠
ゲバラのHIROSIMAの感想
1959年、ゲバラ来日。13日間の滞在の記録は少ない。熱望して広島を訪れ、『きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目に遭わされて、腹が立たないのか』と怒り、原爆症の患者たちの為に泣いてくれたことがわかっている。キューバは1962年、核戦争の瀬戸際までいった国でもあるが、彼らが核の力を望んだのではなかった。ゲバラとカストロがヒロシマを重視したのは、強大なアメリカへの敵愾心と、被爆の桁外れな悲惨さのためだったのだろう。二人の熱心な施策により、キューバ人のほとんどは"ヒロシマ"を知っている。日本人はどうだ?
『軍拡競争はつねに戦争へと発展してきた、と我々の首相は本総会に先立って発言した。現在、世界には新たな核保有国が生まれ、武力衝突の可能性が高まりつつある。我々は、核兵器の完全破壊および、その第一段階としての核実験に例外なき禁止を実現するには、全国家が参加する会議が不可欠だと確信している』。1964年、ゲバラの国連演説より。
碑文の「過ちは繰り返しませぬ」の主語がないことについて、ゲバラをはじめ、何度も文中に触れられている。この件は以前から知っていたが、今回初めて自分の答えを見つけたように思う。主語はやはり「私たち日本人」なのだ。無論、原爆を落とした責任はアメリカにある。しかし、この戦争を起こしたのも、敗色濃厚になっても反撃し続けたのも日本であり、自分たちに責任が無いなどと死者の前で言い切る厚かましさは、当時の日本人の精神性にはなかったのだ。今後も、世界のどこにも核爆弾が使われることのないよう、働きかける義務が日本人にはある。
読了日:08月09日 著者:佐藤 美由紀
華胥の幽夢 (かしょのゆめ) 十二国記 7 (新潮文庫)の感想
その政策が正しいかどうか。つまり、それにより国が立ち行くか否かは、実行して経過を見ないとわからない。確信できないから、王は熟考し、より信じられる政策を実行する。才国の悲劇は、そのプロセス半ばで作為的に歪められたことだった。もし歪められなければ、才国はいずれ立ち直れただろうか。だって、麒麟が選んだ王だったのだから。会社の社長は、麒麟が選んだわけではない。しかも寿命が永遠のわけもない。ただ、資金のあるうちに、人心が離れないうちに、利益を出し続けなければならない。華胥華朶で観た夢を録画して会議にかけたいわ。
読了日:08月08日 著者:小野 不由美
作家の猫 (コロナ・ブックス)の感想
いただきもの。以前読んだことがあるはずだが記憶にない。猫との生活を愛した作家たち。その作品。近しい人によるエッセイと続く。猫好きはその野生味と、自問を誘う眼差しを愛する。三島由紀夫、開高健、中島らもなど自らをこじらせ気味の作家たちは、猫に見つめられるたび自問自省のあまり七転八倒していたのではないだろうか。そして猫の手触りの柔らかさになだめられ悶絶するのだ。貫禄たっぷりなお腹をした猫も多い。さぞ贖罪のお刺身を献上されたのだろうと想像して楽しい。本人による猫観を読みたいと、前回も思ったのだったな。
読了日:08月05日 著者:夏目 房之介,青木 玉,常盤 新平 ほか
注:
はKindleで読んだ本。
本を買うときに、「この本はもしや既に本棚にあるのでは」と恐れ始めた。
ちょちょっと読めるような本ほど、気軽に買って買ったことを忘れる。
さくさくとこなしにかかろうと思う。
いや待て。
長く積んでいる、ヘヴィなノンフィクションこそ手がけるべきでは。

<今月のデータ>
購入18冊、購入費用11,155円。
読了15冊。
積読本183冊(うちKindle本68冊)。

8月の読書メーター
読んだ本の数:15

テレビで見かけない日が無いくらい活躍する杏のエッセイ第2弾。前作同様、嫌味がなくて真面目。そして彼女の文章の魅力はそれだけではない。好奇心旺盛で、新しいことを吸収することに熱心だ。行ったところ、体験したことどこからでも、もちろん読んだ本の中からも気づき、吸収できるのは素晴らしい素質だと思った。モデルから女優の仕事を始めて、それほど経っていないのだっけ。吸収したものは、いずれ醸成されて発揮されるのだろう。楽しみだ。「杏」の字をほどいて「ほろほろ」ってタイトルにつなげる感性が面白い。
読了日:08月29日 著者:杏

ジョン・ミューアの伝記。ミューアの書いた文章は和訳が少なく、また代表的な和訳本も絶版になっているので読むことは難しいかもしれない。いずれ、この本は彼や当時のアメリカのことを知るのによかった。シエラネバダのジョン・ミューア・トレイルは本人が発案したものではない。しかし過度に舗装されることもなく、商業化されてもなく、ミューアの精神を感じ取るためには素敵な場所みたいだ。自然礼賛と巡礼の匂いがする。アメリカ人はこんな場所を生むこともできるのだな。いつか行きたいが、常人が全て歩き通すには1か月かかるとのこと。
19世紀末、とかく資源は強奪した者勝ちのアメリカにおいて、文明化のためには自然破壊やむなしの風潮にミューアは傲然と抗った。自然保護の思想は、破壊への反動なのだろうか。「自然は人間のための資源」と考える開発推進派との対立の中で、シエラクラブや数人の大統領をはじめ、自然との共存が必要と考える者が増えたのがこの頃で、自然保護運動の機運が国内に高まり、ミューアが"生ける伝説"と持ち上げられたのも時宜だったと言えるだろう。法的に保護しなければ全て壊されうるという前提は、日本も持った方がいい。
ミューアは根っからのナチュラリストで、本来はシエラネバダの自然の中に住んで歩き回ってさえいれば幸福な人だった。しかしそのシエラネバダやヨセミテをはじめの自然が開発という名の破壊行為に晒されるに至って、政治家や行政府に働きかける自然保護活動に全力を注がなければならなくなった。『自然保護運動は政治運動そのもの』。ロビー活動というと激しい政治的行為のように感じるが、戦わなければ自然は守れなかったのだ。それは今も、同じ。
読了日:08月29日 著者:加藤則芳


酒席でこんな話を嬉々として喋る人の隣に座ってしまったら、10分で中座する自信がある。「昔はよかった」は「昔はよかったと思える自分は他者よりまともである」という認識の表面化にすぎない。実は昔もね、と昭和明治江戸と遡って新聞記事などを紹介するまではよいが、現代批判の安易さに呆れてしまった。与太話だね。さて熱中症のくだり。大正三年に秋吉台、昭和八年に富士裾野で陸軍の演習中にいずれも百人超が倒れ、数名が死亡する事件が起きている。八甲田山の暑熱版もあったと知る。こちらは新聞がほとんど批判しなかったというおまけつき。
読了日:08月25日 著者:パオロ・マッツァリーノ


日本の狂牛病騒ぎが2001年。この冊子が発行された2008年には、とっくに日本人は狂牛病の事を忘れ去っていたはずだ。しかし改めて経緯を知ると寒気がする。草食動物である牛の子を肉や骨の粉(動物の死骸)で育てるという発想をはじめ、問題のある人的作為の大概は金の都合だ。『狂牛病は人災の連鎖』。この類の問題は解決していないどころか増える一方。私たちの身体は動的平衡にある。摂取したものは、文字どおり血肉になる。平衡状態の乱れが病ならば、私たちは注意深く自分の身を守らなければならない。安さで選べばそれなりの体になる。
読了日:08月25日 著者:福岡 伸一

中里が気になった。なぜなら、うちにも中里のように利発で鼻っ柱の強いのが何人かいるからだ。そして経営者は聖者ではない。言わんでいいことを言ってしまうし、そこらじゅうに矛盾は転がり、ずっといてくれるか不安にもなる。辞めると言われると、いつも凹む。「この会社じゃ夢がない」とか「泥船だ」とか思われたら負けだよな。でも、ただ人手が欲しいわけじゃない。成長を見たいんだよ。ちょっとやそっとで壊れない信頼関係。企業間でもそうであるように、会社と社員の間も信頼は一日では成らない。言葉と態度で日々積み重ねるしかないんだろう。
読了日:08月25日 著者:池井戸 潤

ボランティア活動のために、知名度向上と経費補填を兼ねてなにかヒントを得られないかと思って。ここに紹介される店主は皆ユニークで自由な印象を受ける。でももともとは、どこかの会社で窮屈さを感じた経験があったり、きっと「特別な人」ではない。小さなスキルと小さなセンス。なにかを売る。またはワークショップで人々と触れあう機会をつくる。自分に興味があることを取り上げるのがコツ。そこが難しいんだけど。長く続けようとか、儲けようとか思わずに、自分の遊びと思って始めるのが肝心みたいだ。お金の優先順位は3番目くらいにすること。
読了日:08月24日 著者:


『道のオオバコは、みんな踏んでもらいたいと思っているはずである』。擬人化したくなるのも解る。世代を繋ぎ、種を拡散するため、雑草たちは思いも寄らない策を繰り出す。ゴルフ場で、刈られる高さに合わせて種子の生る高さを変えるよう進化するとは、スズメノカタビラ凄ぇ。ある調査では雑草の種子が畑1平米あたり75,000粒あった。埋土種子と呼ぶ。ほとんどの種子は土の中で休眠しているのだ。敵がいなくなった(=抜かれた)ときを狙って発芽するのだから、そりゃ抜いた端から生えてくるわな。もう、道端の雑草が気になって仕方ない。
読了日:08月22日 著者:稲垣 栄洋


「あの戦争」を体で知る世代がいなくなり、ハコモノの博物館は大きな齟齬を抱えたまま経年劣化し続ける。そして日本には"唯一の真実"が無い。他国や日本の博物館を数々訪れたうえで、あえて戦争を知る必要はない、と著者は言う。「あの戦争」を知らず、息詰まる日常こそ平和と教えられた世代への解答のような結論だ。世界に散らばる無数の小さな記憶、その痕跡。これらの価値は高い。戦争の微細な出来事を事細かに記憶する必要はないのだ。ただ、その悲しみと愚かさを伝えるためだけに全ての展示物、全ての記憶に意味はある。私はそう考えたい。
小学生の高学年頃、子供向けの戦争ものばかり読んでいた時期がある。その所為と私は考えているのだが、上空を飛ぶ飛行機やヘリコプターの音が少しでも大きいと怖い。「アルキメデスの大戦」の冒頭シーンを、まるで自分の記憶のように錯覚したりもする。幼い頃に摂取したものは根深く残る。その私の戦争への忌避感に根深く巣食っていた思い込み、それは「次の世界戦争も総力戦」である。AIなどを軍事利用に開発する現代、徴兵制はオワコンか。人の死なない戦争などあり得るのか。何がOKで何がNOかを自分の中で突き詰めていかなければならない。
著者の言うように、古来から人間は戦争をせずにいられなかった。ならば次も必ずあるのだ。確かに、その形は第二次世界大戦とは全く違うだろう。しかし、よしんば無人機同士での戦闘や人工衛星の破壊が主になったとしても、いずれ人間の肉体と精神を損なうものに必ずなる。なぜなら戦争は相手の大事なものを強奪する手段であり、生身の人間が大きな何かに抵抗するには、まず自分の身体をもって行動するからだ。香港では既にデモを歩いているだけの人が傷つけられている。ましてや日本は過去の戦争についてすら結論することができない国なのだから。
読了日:08月21日 著者:古市 憲寿


若い作家の滞在記から、老練な作家の深みの際立つ随想まで、幅広い18篇。「在飛騨國分寺、新年許願」や「没有、我没有去過日本看櫻花」など、同胞向けに書かれたものを日本語に翻訳し、編んだものだ。日本の作家の外国滞在記はよく読むが、逆は不思議な感覚がすると知った。また、私の持ち合わせない教養と感性で、京都や建築や言葉に傾倒していただけることに感謝しつつ、いつか私もこんな風に台湾のことを思えるくらい、台湾に通ってディープに味わいたいと思う。恥ずかしながら読んだことのある作家は皆無なので、ぼちぼち読んでいこう。
読了日:08月19日 著者:

バーで8杯の火酒を呑む間のインタビューを、全編会話文だけで構成する趣向。年齢の似た二人の、相手を気遣ったり軽く茶化したりの長い会話は、大人らしく柔らかくも真剣だ。藤圭子を知らないからこそ、文章から脳裏に造形する藤圭子は、素直で芯の通った女性だった。後書きで出版までの経緯を読み、ようやく気づくのだ。彼女はこの後宇多田ヒカルを産み、病の末にマンションで自死したのだと。沢木耕太郎の言うとおり、このきらめきを無かったものにするのはもったいない。結末から逆算するのではない、この確かにあったきらめきをただ見上げる。
読了日:08月16日 著者:沢木 耕太郎

いかにも、平成の時代の都会の子。お金はあって、所有物にはたいていブランド名がついていて、食べたいものを食べる。結局のところ、彼がなぜ死にたがっているのかわからないんだよなぁ。『僕にもうこれ以上、欲を持たせないでよ』。自分のように受け答えするGoogleHomeをつくるようなことって、人生の遊びの部分だと思うし。じゃあ生身の人間と会話やスキンシップすることがその解決だと思っている気配は愛にもないし。ただ空疎が残る。生きてる実感?それって何?と聞かれても、答えづらい。令和はその反動の時代にならないかな。
読了日:08月13日 著者:古市 憲寿


「戦争」から20年経った日本。国の統治は形骸化し、生き残った人間は敵や略奪者、突然変異のぬめぬめした生物らと戦いながら遺物を漁って生きている。架空の世界、架空の地名、架空の出来事なんだからSFだろうが、変てこな固有名詞ばかりの、見たことのない異世界だ。そしてやたら生臭い。水辺は油まみれの泥濘に変わり果て、汚れた油で厚く覆われた海面が、さざ波すら立てずにてらてらとのたる世界。青くない海。それこそがシーナさんにとってのディストピアの象徴ってところが面白い。"招魂酒"と書いて(ふぬけ)。わぁ、飲みたくないわぁ。
読了日:08月12日 著者:椎名 誠


1959年、ゲバラ来日。13日間の滞在の記録は少ない。熱望して広島を訪れ、『きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目に遭わされて、腹が立たないのか』と怒り、原爆症の患者たちの為に泣いてくれたことがわかっている。キューバは1962年、核戦争の瀬戸際までいった国でもあるが、彼らが核の力を望んだのではなかった。ゲバラとカストロがヒロシマを重視したのは、強大なアメリカへの敵愾心と、被爆の桁外れな悲惨さのためだったのだろう。二人の熱心な施策により、キューバ人のほとんどは"ヒロシマ"を知っている。日本人はどうだ?
『軍拡競争はつねに戦争へと発展してきた、と我々の首相は本総会に先立って発言した。現在、世界には新たな核保有国が生まれ、武力衝突の可能性が高まりつつある。我々は、核兵器の完全破壊および、その第一段階としての核実験に例外なき禁止を実現するには、全国家が参加する会議が不可欠だと確信している』。1964年、ゲバラの国連演説より。
碑文の「過ちは繰り返しませぬ」の主語がないことについて、ゲバラをはじめ、何度も文中に触れられている。この件は以前から知っていたが、今回初めて自分の答えを見つけたように思う。主語はやはり「私たち日本人」なのだ。無論、原爆を落とした責任はアメリカにある。しかし、この戦争を起こしたのも、敗色濃厚になっても反撃し続けたのも日本であり、自分たちに責任が無いなどと死者の前で言い切る厚かましさは、当時の日本人の精神性にはなかったのだ。今後も、世界のどこにも核爆弾が使われることのないよう、働きかける義務が日本人にはある。
読了日:08月09日 著者:佐藤 美由紀


その政策が正しいかどうか。つまり、それにより国が立ち行くか否かは、実行して経過を見ないとわからない。確信できないから、王は熟考し、より信じられる政策を実行する。才国の悲劇は、そのプロセス半ばで作為的に歪められたことだった。もし歪められなければ、才国はいずれ立ち直れただろうか。だって、麒麟が選んだ王だったのだから。会社の社長は、麒麟が選んだわけではない。しかも寿命が永遠のわけもない。ただ、資金のあるうちに、人心が離れないうちに、利益を出し続けなければならない。華胥華朶で観た夢を録画して会議にかけたいわ。
読了日:08月08日 著者:小野 不由美

いただきもの。以前読んだことがあるはずだが記憶にない。猫との生活を愛した作家たち。その作品。近しい人によるエッセイと続く。猫好きはその野生味と、自問を誘う眼差しを愛する。三島由紀夫、開高健、中島らもなど自らをこじらせ気味の作家たちは、猫に見つめられるたび自問自省のあまり七転八倒していたのではないだろうか。そして猫の手触りの柔らかさになだめられ悶絶するのだ。貫禄たっぷりなお腹をした猫も多い。さぞ贖罪のお刺身を献上されたのだろうと想像して楽しい。本人による猫観を読みたいと、前回も思ったのだったな。
読了日:08月05日 著者:夏目 房之介,青木 玉,常盤 新平 ほか
注:

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